Monday, July 24, 2006

昭和天皇と神々の深き欲望

●先日、今村昌平の「神々の深き欲望」を観た。
●こんなあらすじです。(goo映画より)
今日もまた大樹の下で、いざりの里徳里が蛇皮線を弾きながら、クラゲ島の剣世記を語っていた。この島は、今から二十余年前、四昼夜にわたる暴風に襲われ津波にみまわれた。台風一過、島人たちは、根吉の作っている神田に真赤な巨岩が屹立しているのを発見した。神への畏敬と深い信仰を持つ島人たちは、この凶事の原因を詮議した。そして、兵隊から帰った根吉の乱行が、神の怒りに触れたということになった。根吉と彼の妹ウマの関係が怪しいとの噂が流布した。区長の竜立元は、根吉を鎖でつなぎ、穴を掘って巨岩の始末をするよう命じた。その日からウマは竜の囲い者になり、根吉の息子亀太郎は若者たちから疎外された。そんなおり、東京から製糖会社の技師刈谷が、水利工事の下調査に訪れた。文明に憧れる亀太郎は、叔母のウマから製糖工場長をつとめる亀に頼んでもらい、刈谷の助手になった。二人は島の隅々まで、水源の調査をしたが、随所で島人たちの妨害を受けて、水源発見への情熱を喪失していった。刈谷は、ある日亀太郎の妹で白痴娘のトリ子を抱いた。トリ子の魅力に懇かれた刈谷は、根吉の穴掘りを手伝い、クラゲ島に骨を埋めようと、決意するのだった。だが、会社からの帰京命令と竜の説得で島を去った。一方、根吉は、穴を掘り続け、巨岩を埋め終る日も間近にせまっていた。ところが、そこへ竜が現われ、仕事の中止を命じた。根吉は、二十余年もうち込んできた仕事を徒労にしたくなかった。根吉は頑として竜の立退き命令をきき入れなかった。豊年祈祷の祭りの夜、竜はウマを抱いたまま死んだ。そのあとで、根吉は、妹ウマを連れて島を脱出した。小舟の中で二人は抱きあったが、島から逃れることはできなかった。亀太郎を含めた青年たちに、根吉は殴り殺され、海中の鮫に喰いちぎられた。ウマは帆柱に縛られたまま、いずことも知れず消えていった。五年後、クラゲ島は観光客で賑っていた。亀太郎は一度東京へ行ったが、いつの間にか島に戻り、今は蒸気機関車の運転手をしている。そしてトリ子は岩に化身して刈谷を待ち焦がれているという。里徳里が今日もまたクラゲ島の創世記を観光客に蛇皮線で弾き語っていた。

●沖縄の孤島を舞台にした、呪術・近親相姦・開発をテーマにした今平の総決算的作品だ。代表作ではないが…
●この作品を観て今回思ったのが、村の長老・竜元の存在だ。これは実際には戦前・戦後を境に態度を翻した昭和天皇に対する批判ではないか?竜元自身も、開発担当の北村に対して「島の神聖な領域の不可侵」を主張していた。また、北村に御滝の開発を依頼されるとノロに聞かないと解らないと合議制をたてにあいまいな返事をする。これはまさに天皇制そのものだ。
●用水の確保が出来ず、空港開発に話が向かうと、竜元は「島も変わらなければならない」と態度を翻した。
●これは玉音放送後、退位もせずに天皇に在位し続けた昭和天皇批判に違いない。今村は弟子の原一男に「ゆきゆきて神軍」を撮らせている。
●なぜこんなことを長々と書いたかと言うと例の「昭和天皇メモ・靖国参拝」の件だ。あのメモの内容は要するに松岡洋祐、白鳥元田大使に不快感をもっていた。さらにそれをA級戦犯合祀した松平宮司に対する不快感がメモとして発見された。
●昭和天皇は松岡・白鳥個人に不快感をもっていたのか、それともA級戦犯合祀自体に不快感をもっていたのか?東条英機のお孫さんは天皇と東条の親愛の深さを主張する。
●A級戦犯の多くは東条を始めとして昭和天皇の身代わりになって刑に処された面を持つ。そのことに対して昭和天皇はどう考えていたのか?普通に考えれば感謝していたはずだ。それではこの件は単に独断専行が多い二人の外交政治家が生理的・もしくは道義的に嫌っていたのか?
●昭和天皇が靖国参拝をやめたのはA級戦犯合祀の年ではなく2年後だった。
●どちらにせよ新聞が書いてあるような靖国参拝に対する決定的事件というほどご大層な問題ではないだろう。
●靖国問題は昭和天皇の一存で決めていい問題ではないのだ。歴史的背景を問うと元々、天皇のために殉死した人を祀る神社である。しかし、戦後は国家神道を解体し、靖国神社は独立法人となっている。この段階で天皇の神社ではなくなっている。象徴天皇としての戦後皇室を選択し、現在も継続している現段階では個々の首相・政治家・皇族が判断すべきであろう。
●「神々の深き欲望」で竜元演じる加藤義が本当に昭和天皇としてよくだぶる。映画は島に空港が出来て、米軍将校や、富裕層が観光にくるところで終わる。戦後日本そののままの姿だ。だが、靖国問題はのどに刺さった魚の骨のように日本にゆさぶりを掛けてくる。この天皇発言で「分祀派」は幕引きしたいのだろうがA級戦犯どころか戦後の総括をやらずに憲法その他の問題を凍結してきたので、仮に分祀がうまく言ったとしても問題が収まったわけではない。
●なぜなら従軍慰安婦問題や南京虐殺問題など、戦後、忘れ去られた事件が突如、復活するからである。例えば、石井細菌部隊等、格好の標的ではないか。B級C級戦犯も蒸し返されないという保証もないし…
●ここで、せっかくだから「靖国問題」について私見を述べたい。
①まず、第一に国家として靖国神社をどう位置づけするのか。現在の独立行政法人のままでいいのか、それとも神社庁に入れて国家で管理するのか?分祀派は国家で管理するためにA級切り離しを進めたいのだろうが、それをすると明治維新以降の日本を否定することになりかねない。
②東京裁判が勝者の敗者に対する処罰であることは論を待たない。日本が総括する気があるのか。
③A級戦犯だけが近隣国に被害を加えたわけではない。外交問題として処分したらBC級でも処分しなければA級遺族に申し訳が立たない。

Thursday, July 20, 2006

ダークサイドジャパンツアー④神戸

●わが町神戸のダークサイドツアーです。
①高架下
JR三ノ宮駅~元町駅~神戸駅の全長5キロの高架下にあるショップ群です。数戦直後の闇市から形成されたらしく、経営者に中国人・韓国人が多いのが物語っています。ちなみに「タイガーブラザーズ」というカジュアルショップが有名ですがここは中国華僑の経営です。ワタクシも学生時代にバイトしてました。三宮~元町間はおしゃれな店が多くレベルが高いのですが、元町~神戸間は未だに中古家電ショップが軒を連ね昭和の香りが残っています。注目店は日本で一番早くアイビーを輸入したといわれる「ミスターボンド」。前出の「タイガーブラザーズ」です。クラシコイタリアの靴も充実してます。神戸の履き倒れの伝統が垣間見えます。
②中華街
横浜ほど化学調味料に汚染されていません。お薦めは「別館牡丹園」です。
③旧居留地
明治維新に外国人が住んでいたビルをそのまま再利用して世界中のブティックが集まっています。銀座や青山よりも観光地としてのレベルは高く、ミラノのモンテナポレオーネや、パリのサントノーブルに近い雰囲気で、ヨーロッパ航路の終着港だった神戸の特徴がよく出ています。お薦めは「EHバンク」と「アリランズグラフィック」です。どちらもカフェですが、これだけ風情のある物件は東京ではお目にかかったことがありません。

ダークサイドジャパンツアー②大阪

●ディープ大阪知ってまっか?
●関西出身の作家・宮本輝氏はデビュー作「泥の河」で船で売春を営む一家を描いてましたが、あれは実在していたでしょう。場所は道頓堀川と尻無川のの合流地点で、最寄り駅は大正です。今でもヨットを停泊させてバーをやってます。昔からそういう習慣があるのでしょう。
●この大正の近くに「リバティー大阪」という博物館があります。barairo.net/libertyOSAKA/1.html - 4k - 正式名称は大阪人権博物館です。様々な差別問題を取り扱ってます。大阪は元々、渡辺村と呼ばれてました。その中心には巨大な被差別部落があり、当時、渡辺村と呼ばれていたそうです。その中心地にリバティー大阪はあります。一度、見学すると歴史教科書には載ってない日本の裏面が見えてきます。
●飛田新地ってしってますか?現存する日本最大の遊郭です。場所は天王寺から徒歩10分で、西成あいりん地区に隣接しています。別に女性をかわ無くても、城内にある居酒屋「たいよし百番」で見物できます。ここは元々、廓をそのまま再利用した店で、内装も昔の雰囲気を残しながらリフォームされています。泉鏡花や、永井荷風の世界に耽溺できます。www9.ocn.ne.jp/~jitian/ japan/osaka/taiyoshi/taiyoshi.htm - 24k
●同じく天王寺商店街にある「明治屋」はじゃりんこチエ好きの方にはたまらないお店です。居酒屋評論家の太田和彦さんも「日本の宝」と激賞しています。tabelog.com/osaka/rstdtl/27000546/ - 48k -
●同じく天王寺の「魚市」。ここはワタクシが日本一の居酒屋として推薦します。マグロの眼肉はDHAで有名になったけど、ここは流行するはるかに前から昼飯で出してた。マンボウの肝とか、マグロの眼肉とか、珍しいモンをごく普通の食材みたいに扱ってるあたりに実力を感じる。
場所:天王寺アポロB2・天王寺駅ビル・天王寺mioにそれぞれあります。
電話:06-6649-4652
時間:11:00-22:00
休日:第2・3木
●コリアンタウンとして知られる鶴橋・桃谷エリア。かつては猪飼野と呼ばれてました。鶴橋市場のチジミやキムチは日本一充実してます。イートインも出来ます。お勧めは焼き肉屋「空」。韓国料理屋「ソウル家」。お好み焼屋「オモニ」。肉料理屋「遊山」。
●前述の大正は沖縄人エリア。戦前戦後、紡績工場の労働力として大量の沖縄人が移住してきた。琉球料理屋が数多くある。しかしお薦めはそば不毛の地・関西を代表する蕎麦屋「凡愚」。
●織田作之助の「夫婦善哉」で有名な法善寺横町は大阪切手のグルメストリート。お薦めは焼き肉屋「とらちゃん」「彦壱」。お好み焼きや「」ふぐ料理屋「南進」。
●なんだか食い物屋の話ばっかりになりましたが、「ミナミの帝王」や「ナニワ金融道」でおなじみの街ですが、これは紹介する必要はありませんね…

ダークサイドジャパンツアー③島

●妖しい島がいっぱいあります。日本には6500の島があります。そのうち有人島が4300.様々な因習や秘密を抱えた島が多い。
①売春島
②秘祭島
③流刑島
など、様々なタイプがある。
●大崎下島・広島県大崎群島
渡鹿野島・三重県島諸島
これらの島は売春tぷ賭して有名。現在でも現役の島。しかし、といっていいのかどうか、フィリピン人が多いそう…
●トカラ列島って知ってますか。奄美大島と屋久島の間にある群島。ここは秘島中の秘島。活火山やイギリスの小説「宝島」のモデルになったその名も宝島など、全部で十島ある。その中でも悪石島で行われる秘祭「ボゼ」は必見。どう見てもインドネシアの神様にしか見えないボゼという来訪神のお祭り。ボゼという神様が男根状の棒に液体をつけて島民に振り掛ける。
●佐渡島は古くからの流刑島。能役者・世阿弥も最晩年流され、ここで能を広めた。
●似たようなケースに淡路島の人形浄瑠璃がある。こちらは称徳天皇が流されたことで有名。

Tuesday, July 18, 2006

日本古代史の謎②ヤマトタケル

●ウィキペディアより
●日本武尊(やまとたけるのみこと、古事記では倭建命・と表記)こと小碓命(おうすのみこと)は、日本神話に登場する英雄。記紀の記述に依れば2世紀、一般には津田左右吉らの説から4世紀 - 6,7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされる。父は景行天皇。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
●古事記による説話の概要
『古事記』と『日本書紀』による説話は、大筋は同じであるが、主人公の性格付けや説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここではより浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性に彩られた、古事記の方の説話を中心に述べてゆく(日本書紀との差異は、逐一文末に表示する。おおむね、日本書紀のほうが天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である)。
※岩波書店日本古典文学大系1古事記、67日本書紀上による。
●父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄を殺してしまう。そのことで小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず伊勢へ赴き、伊勢の斎宮をしている叔母倭姫命から女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった(日本書紀では、兄殺しの話はなく、父天皇が一旦平定した九州地方で、再び叛乱が起きたため、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている)。
●九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた(日本書紀では熊襲の首長が川上梟帥(タケル〉一人とされている点と、台詞が古事記より、天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じである。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される)。
●その後、日本武尊(倭建命)は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう(日本書紀では崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、全く同型の話が見えるが、日本武尊(倭健命)の話としては出雲の話は全く語られていない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける)。
●西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は、再び叔母倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は日本武尊(倭健命)に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う(日本書紀では当初、大碓命が東征の将軍に選ばれたが、彼は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が名乗りを挙げる。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢に寄って、倭姫命より天叢雲剣を賜る。…ここの部分が最も差異の大きい部分である。日本書紀では兄大碓命も存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく展開となっている。天皇の期待を一身に受けて、出発する日本武尊像は栄光に満ちており、古事記の涙にくれながら旅立つ倭建命像とは、イメージに大きな開きがある)。
●倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く(日本書紀にはない)。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という(日本書紀では駿河のこととなっているが大筋はほぼ同じで、焼津の地名起源になっている。ただし、火打石は叔母に貰った物ではない)。
●相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠み、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた(日本書紀では「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったことが明記されており、同様に妾の弟橘媛の犠牲によって難を免れたことが記されているが、和歌の挿入はない)。
●その後、倭建命は東国を平定して、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、そこから東国を望んで「吾妻はや。」(わが妻は…)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマと呼ぶようになったと言う。また甲斐(山梨県)の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波…」の歌を詠み、それに下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る(日本書紀ではルートが大きく違う。書紀では上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)まで至っている。陸奥平定後は古事記同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓氷坂(群馬・長野県境〉で、「あづまはや…」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る)。
●尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する(日本書紀では経血について詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行く経緯に差はない)。
●素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ヶ原町あるいは米原市の両説あり)で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となっていた。
●弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部~三重北部)と進んで行く。ここでは地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである(日本書紀では日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったことから、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わして報告させ、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという)。
●倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった(日本書紀では父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されていたという)。
●白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう(日本書紀では白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)となっていて、その3箇所に陵墓を作ったとしている。こうして白鳥は天に昇っていってしまう。その後天皇は、日本武尊の御名代として武部をさだめた。古事記と異なり、大和に飛来している点が注目される)。
※当時の「白鳥」は白鳥(はくちょう)のみを指すのではなく、「白鷺」など白い鳥全般を指している。
※「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われている。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。
●草薙剣
この説話では、駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣で草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが、天智7年(668年)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再度熱田神宮に祭られることになった。熱田神宮には「酔笑人神事」といってこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり、草薙剣が本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。おそらく、尾張氏の娘を母とする安閑、宣化天皇の関係で、神器化された草薙剣の祭祀を巡って、朝廷と熱田神宮に何らかの軋轢が在り、最終的に熱田神宮での祭祀が決まったために、その合理的な説明として、伊勢神宮からヤマトタケルの手を経て、尾張に剣が置かれることが語られたといえよう。
●ヤマトタケルの物語は、かつて吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面によって変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なっている。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関わっていたことが伺える。
●小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江の一の宮が建部神宮で祭神がヤマトタケルであること、などから近江=滋賀県がヤマトタケルとつながりが深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃である事と考え合わせると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊である事が推察できるが、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話が「山城国風土記」などに見られ、白鳥との関連も伺わせる。尚、「武智麻呂伝」にはヤマトタケルが伊吹山で、「平家物語剣の巻」には近江で白鳥となった説話が伝わっているので、白鳥になる話の根幹が近江に在った可能性は否定できない。
●倭姫-倭ヲグナの物語(大和に伝わる幼童神伝説)
日本の説話では桃太郎や一寸法師など童形の英雄により鬼退治がなされることが多い。このような幼童神を育てる存在を折口信夫は小母=おばだという。従ってここの倭姫は斎宮というより、幼童神を育てる巫女であろう。また、ヤマトタケルが新羅系の弥勒如来像や秦氏のような新羅系氏族と関わりの深い聖徳太子と同様の髪形をしていたことや、女装することから、新羅の花郎=ファランのような呪術的な存在である、と思われる。因みに、斎宮(いつきのみや)の跡地がある地名は、明和と伊勢市小俣(おばた)である。

●ヤマトタケル伝説において一番言われるのが、複数混合説。兄を殺す粗野なタケル。熊襲を女装してだまし討ちにする狡猾なタケル。父に裏切られて号泣する軟弱なタケル。または全国に派遣された大和朝廷の武将たちの集合体と言う話もある。
●埼玉県稲荷山古墳の剣の碑文にある「ワカタケル」とは雄略天皇のことだそうだが、熊本にも「ワカタケル」のこん跡があり、案外、雄略天皇のことかもしれない。いずれにせよ5世紀後半に大和朝廷の権力が全国に波及したのは前方後円墳の全国化とあいまって事実であろう。初期ヤマト朝廷の立役者・ヤマトタケルは実在の人物か?
●ヤマトタケルが征伐したポイントは下記。熊本(熊襲)、出雲、長野、山梨、神奈川、静岡、群馬…まるでアレクサンダー大王並みの大活躍だが、地域的に見て大体、正しいのではないか。

Friday, July 14, 2006

日本古代史の謎③出雲神話

●ウィキペディアより
●姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと思わる。また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出した。出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。その後、西部地方は衰えを見せるが出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し弥生後期には広く日本海側に展開をした。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえる。その後、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もある。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説がある。 
●楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。古事記、日本書紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月(10月のこと;出雲では神在月)に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘がある。暦の名称や、和歌の起源などもここに求められるという説もある。
●ただし、宗教で纏め上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしている。現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆国と考えるのが妥当であり、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされている。
●その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造家は現松江市以東にあった意宇郡の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となったが、出雲国造家の血統は現在までも連綿と続き、天皇家と匹敵する長さを有することとなった。

●出雲は古代日本の中心地で最初に奈良に進出した一族と考えられる。三輪山は大国主命が祀られ葛木山周辺は蘇我一族の本拠地。奈良盆地最古の古墳・巻向・箸墓遺跡は邪馬台国の遺構と推測され、そこは大国主=蘇我の城都と言われる。

日本古代史の謎①邪馬台国

●まずは毎度おなじみのウィキペディアからの抜粋。
●邪馬台国(一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説あり。後述)は、三国時代の歴史書『三国志』(西晋の陳寿の作)のうちの『魏書』の中の『魏書』東夷伝その他の中国歴史書に記載されている3世紀、女王「卑彌呼」(卑弥呼)が治めていた倭人の国。当時小国ばかりだった3世紀の倭国で、188年の倭国大乱の後に倭人の国30国を従えていたとされている。丹(辰砂)などを産出するとされる。248年に敵国狗奴国との戦いの最中、卑弥呼が死去した後、男王がたったが治まらず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になったという。
●「やまたいこく」と言われるが、とりあえずの日本語読みである。 『三国志』のすべての版本には「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれているが、これは伝写の誤りまたは字の書き換えで、「邪馬臺國」(日本語読み「やまたいこく」)が正しいとされており、これが学界の定説となっている。日本の漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)後は「壹」は壱、「臺」は台と書く。しかし、「邪馬壹國」とする説も在野に根強く残っている。また、「耶馬臺國」と書く説もある。
●邪馬台国があったとされる根拠は、『魏志』倭人伝に残されている(参照→Wikisource)。場所は、魏志倭人伝に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になってしまう。そのため、様々な解釈がなされ、邪馬台国の位置は比定されていない。
●邪馬台国の比定地については、古くは江戸時代に新井白石や本居宣長らが書物などに独自の説を発表をした。明治時代に入り、比定地などに対する論争が始まり、現在においても結論が出ていない。これらは邪馬台国論争などとも呼ばれて、日本どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は畿内説と北九州説である。
●畿内説は、『魏志』倭人伝の方角表記が誤っていると考える研究者(主に京都大学系)に多く見られ、北九州説は、距離表記が誤っていると考える研究者(主に東京大学系)に多い。又、最近の畿内説は考古学による知見を主たる根拠にする傾向が強い。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。
●それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」(※外部リンク--邪馬台国大研究--)にまとめられている。
●畿内説の中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむく遺跡)を邪馬台国の都に比定する説が、(1)遺跡の最盛期が弥生時代終末期~古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること、 (2)北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土すること、(3)広大な面積をもつ当時としては最大級の集落跡であること等の理由により有力になっている。
●また隣接する箸墓古墳が、 (1)300mに迫る規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在し、更に出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められるなど、それまでの墳墓とは明らかに一線を画し、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価されてる画期的な古墳であること、 (2)後円部の規模が『魏志』倭人伝にある「百余歩」(約160メートル前後)に一致すること、 (3)築造年代が卑弥呼の没年(248年 頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっていること、 等により、卑弥呼もしくは台与の墓の最有力候補であることも、纏向遺跡を邪馬台国とする説の重要な根拠の1つである。
●また、三角縁神獣鏡に代表される大陸渡来の遺物がこの時期畿内を中心とする分布となっている事も、畿内説の根拠となっている。ただし、この説には異論もある。
●また、邪馬台国時代の畿内からは鉄製品が殆んど出土しない事(『魏志』倭人伝の記述からは邪馬台国では多くの鉄が使用されていた事が伺える)、『魏志』倭人伝に記述された民俗・風俗が当時の近畿地方のそれとは合致しない事などが畿内説の弱点として上げられる。もちろん『魏志』倭人伝が記述しているのは、必ずしも邪馬台国の都の民俗・風俗ではないという反論もある。
●参考までに、畿内と北九州以外には、琵琶湖湖畔、吉備、出雲、南九州、四国、千葉県、山梨県など日本各地に邪馬台国とされる地域が散らばっている。

●北九州か畿内か
●本居宣長は「畿内のヤマトを北九州が勝ってに名乗った」説。歴史作家の関裕二氏はこの説が正しいと主張する。
●ただし、畿内のトヨが北九州(大分県の日田と推定)の卑弥呼を滅ぼし、その後、畿内の政権の裏切りにあって、そのまま九州に放逐され、それが宇佐八幡宮(日田の近くにある)だという。
●松本清張も北九州説で魏志倭人伝の水行陸行を読み替え説を採った。どちらにしろ3世紀に畿内、北九州両方に巨大な政権があった事は事実。魏志が問題にしたのは北九州だろう。これがワタクシの意見です。
●伊勢神宮の内宮は天照大神(これが卑弥呼)。外宮はトヨ。これが日本書紀の神宮皇后にあたると関氏は主張する。
●称徳天皇が道鏡を天皇に付ける時にご託宣を賜ったのは宇佐八幡宮。ここに祭られているのが神宮皇后。国内に8万あると言われる八幡宮の総本山でもある。特別な意味をもつ神社であることは間違いがない。
●これらは関氏の意見である。ワタクシは現段階では日本古代史は関史観が一番真実に近いのではないかと考えている。古代史に興味のある方は一度読んでいただきたい。
●推薦図書
古代史9つの謎を掘り起こす PHP文庫
神武東征の謎―「出雲神話」の裏に隠された真相 PHP文庫
「古代史」謎解きのヒント 講談社+α文庫
大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 PHP文庫
●作家・坂口安吾が「安吾新日本地理」で日本の古代の政権争いは朝鮮半島の新羅・百済・高句麗の代理戦争だと言っていた。評論家の柄谷行人氏もこの発言に注目している。ワタクシも注目している。坂口は志半ばで死んだ。その意志を継ぐのが哲学者の梅原猛氏であり、作家の井沢元彦氏であり、より抜き差しならない証拠を突きつけてくるのがこの関裕二氏である。
●日本古代史をこの関史観をベースに再考していきたい。
●では畿内政権とはなにか?関氏はトヨとその参謀である竹内スクネの関係に注目する。このスクネは大国主命の末裔とされる。トヨ=大国主命連合とはなにか?これは畿内の巻向古墳を築いた畿内第一王朝だと説く。(ここでは吉備=出雲は連合、つまり同族とされている)ではこの連中はどこから来たのか?関氏は新羅と密接な関係にあるという。それが浦島伝説に残されているそうだ。
●浦島伝説は日本書紀の「海英彦山彦」の海彦の話に原型があり、またこの子孫が神武天皇にも繋がる家系なので歴史上、重要な事件なのだ。関氏は浦島を鉄を求めて朝鮮半島に向かった渡来人だと説く。しかし、朝鮮半島で思うような採掘が出来なかったので再び、日本に帰ってきたそうだ。浦島伝説の推定地は山陰。ここにはトヨも奉られている浦島神社がある。また。九州にもゆかりがある。
●大国主命が奉られてある出雲と浦島神社は目と鼻の先。また、トヨは九州と縁が深い。それらを総合的に考えると、機内の第一王朝が北九州を制圧した仮説が立てられる。
●次に北九州政権とは何か?魏志では倭人と表記されている。この倭人とは何かを詳しく説明したのは文化人類学者の鳥越健三郎氏。結論から言うと倭人とは南中国一帯に広く分布する中国大陸の一民族だそうだ。農業を中心に漁業を営む、半農半海洋民族で、ベトナム辺りには現在でも当時の風俗のまま生息する原住民族がいる。彼らは長江流域に稲作文明のカボト遺跡を残し、日本に稲作文明をもたらした渡来人、最初の弥生人だそうだ。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと論じられたが、吉野ヶ里以上の巨大遺跡が北九州のどこかにあるに違いない。これらの生き残りが後に倭寇や、松浦党や、水軍になっているのだろう。ひょっとすると平氏にまで繋がっているのかもしれない。
●話は飛ぶが、源氏と平氏の争いも古代の政権争いの最終段階だという。歴史作家の矢切止夫氏はこの説を説く。前出の坂口氏もそれを疑っている文章を残していることを柄谷氏は指摘している。
●最終的に源氏が勝ち、北条に乗っ取られ、皇室と権力争いを繰り広げ、室町時代を迎えて、日本は現在の形なった。関東武士はどこから来たのか?埼玉県に高麗神社という神社があり、ここに古墳時代に大量の高句麗人が移住してきたことが記録に残っている。坂口氏はこう言う「これだけまとまった形で移住してきた記録がらるが、これは時代が安定してきたからで、これ以前にも大量の名も無き移住者があったに違いない」。高麗神社の近くにはさきたま古墳がある。ここの銅剣は書かれている碑文で有名。日本最古の文字といわれている。書かれている内容はこの地はワカタケル(雄略天皇)の家来がいたということだ。時代は5世紀。この頃には関東にまで畿内政権の勢力が届いている。
●ただし、これを元々、朝鮮半島から来た同族のつながりが合ったとも考えられる。いずれにせよ、この時代は関東地方も畿内も前方後円墳だらけ。しかも渡来人だらけだった。
●さきたま、高麗神社の近くの秩父は重要な地だ。ヤマトタケルのこん跡も多く残り、33箇所巡りもできる関東の霊場。また、和銅開封の製造現場でもある。四国88箇所もそうだが。霊場巡り=鉱石採掘所でもあるのは歴史通の方ならご存知のはず。古墳時代はこの地を巡って渡来人が争ったことは想像に難くない。
●話は邪馬台国に戻る。今後、北九州で巨大遺構が見つかる可能性も高く、当時の日本は二重王朝に近い状態で、双方がヤマト=ヤマタイを名乗っていたのではないか?北九州王朝は中国渡来人、畿内は朝鮮渡来人が中心。そして双方は対立して、最終的には畿内勢力が勝利した。本日の仮説はここまで。次回は第一次畿内王朝の謎について考えたい。

Thursday, July 13, 2006

再読「日本近代文学」・⑥ディズニーランドから青べか・山本周五郎

●山本周五郎って知ってますか?昭和を代表する大衆作家です。
●こんな人です(ウィキペディアより抜粋)
山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、本名、清水 三十六(しみず さとむ)、男性、1903年6月22日 - 1967年2月14日 )は日本の小説家。山梨県北都留郡初狩村(現山梨県大月市初狩町下初狩)出身。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)中退。知人の紹介で質屋に住み込みながら、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)を卒業。その質屋の名前が山本周五郎質店である。これが筆名となったのは、自身の出世作となった「須磨寺附近」を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文芸春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した事に由来する。
『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退(※直木賞史上唯一の辞退者である)。
代表作に『さぶ』、『赤ひげ診療譚』、『樅の木は残った』、『虚空遍歴』、『ながい坂』など。
死後、氏の功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
主な作品
日本婦道記(1942年)
樅ノ木は残った(1954年-1958年)
赤ひげ診療譚(1958年)
青べか物語(1960年)
季節のない街(1962年)
さぶ(1963年)
映画
椿三十郎(1962年 監督:黒澤明)
五瓣の椿(1964年 監督:野村芳太郎)
赤ひげ(1965年 監督:黒澤明)
どですかでん(1970年 監督:黒澤明)
どら平太(2000年 監督:市川崑)
雨あがる(2000年 監督:小泉堯史)
かあちゃん(2001年 監督:市川崑)
海は見ていた(2002年 監督:熊井啓)
SABU(2002年 監督:三池崇史)
●唯一の直木賞辞退者と言うところが渋いですな。黒澤映画の常連だったのは知ってます。「どですかでん」は「季節のない街」の得映画化。リリーフランキーは黒澤映画のベストに上げてました。そう言えば雰囲気が東京タワーの子供時代に似てます。
●椿三十郎もリメークが決定(織田裕二!)近年も一流監督に盛んに映画化されています。
●今回紹介するのは「あおべか物語」です。舞台は大正末期の浦安。実際。若き頃の山周が3年間暮らしたところです。「青べか」とは遠浅で漁業できる一人乗りの船のことです。外壁が青いから青べかと呼ばれてました。そこに住む住人との奇妙な交流を短編連作で構成されています。
●黒澤が映画化しなかったのも無理はない…なぜならそこに出てくる人物があまりにもえぐい。ヒューマニズムのかけらもない連中なのです。ぼろぼろの青部かを騙して売り付ける老人。またそれを笑いものにして船を破壊しようとする子供。飲み屋兼売春宿の猥褻な女達。色情況の美少女。出てくる人物が剥き出しのいわば、ドストエフスキーやセリーヌ、ジャン・ジュネの作品の登場人物のような野蛮さを身に着けている。
●物語のエピローグで8年後、30年後、浦安・堀前を山周は訪ねる。そこでこの小説の人物が全て実在していることがわかる。
●素晴らしい…黒澤には無理でも、今平ならできたのに…残念。とにかく、「青べか」は昭和初期の東京周辺の風俗を描ききった作品です。同時代の永井荷風なんかと比べると面白いのですが、川一つ超えるとこれだけ違うのかと驚愕します。解りやすく言うと「最暗黒の千葉」なのですが(笑)。ただ、そこに住んでる連中は自分たちのことを最暗黒と思っているわけではなく、普通に生活しています。たかが70年前にこんなライフスタイルが…。ワタクシの地元関西でも、宮本輝が1940年代のミナミを描いてましたが(泥の川)、あの舟屋の売春がさわやかに感じるほど、泥臭いんです、
●そうなんです。ここで声を大にしていいたいのは、関西より関東のほうが泥臭い=垢抜けないんです。えぐいんです。ぐろいんです。えげつないんです。それをこの青べかは描ききってます。
●「三丁目の夕日」が大ヒットしましたが、作家・小林信彦は自伝「和菓子屋の息子」でこう書いてます。「ワタシは両国で1930年代に育ちましたが、長屋は見たことがない」「下町の人情とかいうが、我々は者の貸し借りはしません。なぜなら金を借りたりしたことはすぐ近所にバレ、あの店も終わりだと噂され、商売がちいかなくなるのです」。た、確かに…
●小林氏は「三丁目の夕日」的な下町=人情ができたのは戦後の松竹映画のせいだと喝破してますが、ほんものの下町が同時代の川向こうにあったのです。ただし、そこには人情はなく、あるのは色情・差別・怠惰・恫喝・諦念・退廃です。長屋暮らしに似つかわしいのはこれらの言葉であることを山周は実証していきます。
●ワタクシ「ディズニーランド」嫌いなんです。なんかあそこの演出や客層って下品なんです。矢沢がライブをやってましたが、ヤンキー一家=矢沢永吉=ミッキー(喧嘩ぱやいアイルランド人のパロディです)=ホワイトトラッシュ(セレブはいきませんよ)という構図が出来上がっていますが、さらにあそこが貧乏くさいのは青べかの呪縛霊が効いていたんですな。
●山周はそんな青べか連中を嫌ってるわけではありません。むしろ好きなぐらいです。30年後に感動的な対面があります。登場人物の一人と街で出くわします。山周はありんままを書いてるので起こられると思ったのですが、本人は感激して一生の宝物にすると言ってます。まあ、その男がとことん無知で権威に弱い(その頃、山周は巨匠でしたから)という言い方もできるのですが、これが本当の下町情緒というものではないでしょうか。所詮、近代的市民のワタクシ達とは隔絶した人間なのです。柳美里の裁判の一件を見てもわかるように。ましてや、我々の癒しの道具ではありません。あんまり悪口を書きましたので今度、「三丁目の夕日」観ます…

Friday, July 07, 2006

日本サッカーはなぜ世界で勝てないか

●ワールドカップもイタリアが優勝し、終了したがこの時点で「日本がなぜ世界で勝てないか」を検討したい。
●C・ロナウドがいない。
ポルトガルのC・ロナウドはボールを貰うと必ず突っ込んでいく。まるでパスするのが恥なように。リトバルスキーが言ってました。「試合に勝つためには危険を承知で一対一で切り込んでいかなければならない」その通り!聞いてますか?柳沢君
●クローゼがいない
そりゃ、いません。要はエースストライカーがいないと言うことです。ワールドカップ3大会でフォワードの得点は中山1点、玉田1点、鈴木1点の計三点は深刻です。釜本はここで受ければ絶対に一点が取れるストライカーでした。釜本以来、40年未だにストライカーは誕生していない。40年ですよ…その間に、ブラジルや、イタリアは何人排出しました?
●テュラムがいない
絶対のセンターバックがいない。テユラムは決勝戦まで、ほとんどクリアミスをしませんでした。年齢は34歳。宮本は29歳です。向いてないんじゃないですか?センターバック。
●ピルロがいない
守備と攻撃を司る運転手・ボランチ。中田も本職ではないし、福西では守備的過ぎて芸がない。
●ガッツーゾがいない
中田も怒ってましたが、攻撃、守備にかかわらずボールのあるところに必ずいるダイナモがいません。小笠原じゃな…
●シュバインシュタイガーがいない
ドリブルで切り込めシュートも打てるサイドアッタカーの存在がチームの勝敗を分ける。サントスは代表の中では積極的にプレーして玉田のゴールを導いた。しかし、守備は下手。MFでしょ~
●ロベカルがいない
サイドを縦横無尽に疾走するサイドバックがいない。ロベカルは加地の倍は走っていました。34歳です。
●ジダンがいない
困った時にボールを安心して預けられる絶対的なエースがいない。俊輔では無理です…
●レーマンが…川口でいいか
●選手が大したのがいない上に、ジーコは采配ミスを犯していた。これでは勝てない。
●ではどうすれば勝てるようになるのか
①Jリーグを強化する
まずは金ですね。スポンサーが減って弱くなった。
②英才教育をする
福島Jビレッジ。フランスのアカデミーのコーチを配備し、それなりに期待ができそうだが…
③監督を換える
オシム監督は過去最高の実績をもつ監督。怖いのは健康面。
④協会の首脳部を換える
…といっても川渕会長以上の人材がいないんだよね。
⑤移民を受け入れる
これも難しそうだが…強いチームは移民国家、もしくは移民の国。
⑥海外に研修させる
釜本もこれで強くなった。10代で才能のある選手は思い切って留学させるべき。
●これだけやって強くならなければ…あきらめましょう。

Thursday, July 06, 2006

北朝鮮7発のミサイルの七つの謎

●一連の北朝鮮問題。
①なぜ七発撃ったのか
一説によると、テポドン2の実験が失敗した時の言い訳説。また、連射ができることをアピール。または着弾地点を一直線に並べられる能力を証明。または軍の暴走。わかりません…わかってもたいした意味がないような…
②なぜ日本海に落としたのか
ロシアの承諾済みだから。これ以上、日本よりになるとイージス艦を配備しているアメリカを刺激する。
③テポドン2号の性能はどうか
アメリカの挑発でハワイを狙ったが着弾失敗した。あの位置にわざと落としたとすれば、どちらにしろ米にはびびってるわけです。北朝鮮のお得意の瀬戸際外交の粋を出ていません。
④この次の発射はあるのか
テポドン2を用意しているそうだが、どうだろうか。そんな金はないと言うのが事実。一番よくないのは過剰に反応すること。どうせ撃っても本土を狙ってくることはないだろう。狙ってきたら?撃ち返してやればいいんですよ。その時こそ。
⑤今回の北朝鮮の狙いは何か
経済制裁に対する解除。米との直接交渉。そんで結果的に日本からの資金調達。要は金体制の延命。それ以外に何がありますかね。
⑥世界の大国はどうするのか
北朝鮮は中国の属国。事実上、港や鉱山の採掘をしているらしい。中国は米に対抗意識をもっているので簡単には賛同しないだろうがガチンコでやる案件でもないと考えているはず。拒否権は発動しないでしょう。事の成り行きを見ているプーチン・ロシアも不気味ではある…アメリカは北朝鮮はどうでもいいと思ってるよ。CNNなんか観ててもあまりとりあげてないし。基本的には中国の管轄だと割り切ってます。そりゃ日本にはリップサービスで調子のいい事言っとりますが…
⑦日本はどうすべきか
金持ち喧嘩せずではないが、クールに対応すべき。そもそも日本は来た北に対してどう対応するのかプリンシプルをもっているのか?たとえば、金正日体制が崩壊した後、大量の難民が想定されるがそこまで考えているのか?韓国は考えている。中国も考えている。どういう状態が日本にとって一番望ましいか。安易に金政権の崩壊を願ってはならないのだ。アメリカなんかは本音では今の南北分断状態でOKだと思ってるんじゃないですかね。そのことを踏まえた上での拉致問題であろう。拉致問題ありきでディシプリンを決定してはならない。拉致問題に対しては粘り強く交渉するほかないのだ。日本の法律を変えない限り、今のやり方が一杯一杯なのだ。その辺は北も知悉している。ただ、この問題で憲法改正議論が出るのは明らかにおかしいので、時限立法で処理すべきである。
●なんだか石原慎太郎や、櫻井よしこみたく景気よくないがこんなもんだろう…

Wednesday, July 05, 2006

岡本太郎・「明日の神話」と岡本かの子

●先日、日本テレビで岡本太郎の「明日の神話」と言う番組の特番を観た。60年代に岡本がメキシコで作成した巨大壁画が発見され、日本で復元されたのだ。それを日テレの敷地内で公開すると言うのだ。現物は観たことがないが、この壁画の存在は随分前に明らかにされ、整然の岡本敏子の最後の仕事でもあった事はNHKの「知るを愉しむ」で紹介されていた。
●今回は敏子と太郎の恋愛物語仕立てになっていた。プロデューサーは電波少年の土屋敏夫。敏子役には菅野美穂。番組の中で2人の間であんな会話が交わされていたのか、どうかは定かではないが…
●作品自体はいつもの岡本節で、特に特筆するものはないのだが、集まったミュージシャンはすごい。遠藤賢治、山下大輔‥。
●太郎がいかに敏子に支えられていたのかを強調していたが、太郎に多大な影響を与えた人物がもう一人いる。実母の岡本かの子の事を思い出す。
●岡本かの子は昭和初期の小説家。代表作は「老妓抄」「寿司」「食魔」「河明かり」など。生に貪欲な人間の実相を描く作品を多く残している。「食魔」はかの北大路魯山人のことを書いたもの。
●生というものに異様な執念を抱くかの子と太陽の塔や縄文土器に関心を示し、「美は呪術だ」と発言する太郎の芸術観は根底のところで通じ合っている気がする。
●かの子の「寿司」と言う作品は子供の頃、母親につくってもらった寿司の味を捜し求める初老の男と店の娘の淡い関係を描いたもの。一見すると太郎の芸術とは違いそうだが、ある意味、人間の生の原動力の不思議さを描くこの作品は「芸術は爆発だ」に近いと思う。人間は理論では割り切れない不可解な感情や思い入れに振り回されて生きていることを岡本母子は知悉している。
●小説を書くために柱に太郎を縛り付けて執筆に没頭したかの子。その背中に何かしら神聖なものを感じ取った太郎。父・一平と愛人の書生との奇妙な共同生活を続けた岡本一家。これらの過程においてあくまで敏子と婚姻関係を築かなかった太郎。その辺にメスを入れて欲しかった。
●岡本太郎という存在を2時間番組で語りつくすのは難しいが、新しい発見もあり(バタイユの秘密結社。しかし、あれは「夜の会」や「コントル・アタック」とはどう違うのか?そのへんの整理が足りなかった)、それなりには面白い番組だった。

Tuesday, July 04, 2006

推理・北朝鮮・横田めぐみさんは生きてるのか?

●横田めぐみさん=拉致当時(13)=の夫だった韓国人拉致被害者、金英男さんが先月末、北朝鮮の金剛山で行った記者会見について、中国共産党機関紙「人民日報」傘下の環球時報は6月30日付で会見の内容を詳しく報じた。拉致問題に関して、これまで中国メディアはほとんど報じていなかっただけに、異例の報道ぶり。しかし、同紙の記事は背景説明も事実検証も少なく、北朝鮮寄りのスタンスで、拉致問題解決に消極的な中国政府の姿勢を暗示する内容となっている。
●記事は「韓国男性が朝鮮(北朝鮮)での28年を語る」と題するもの。冒頭で、韓国と北朝鮮政府が進める離散家族の再会事業の場で28年ぶりの親子の涙の再会場面を紹介。金英男さんが韓国政府認定の拉致被害者であることなどに全く触れず、北朝鮮に渡った経緯については、「高校生の時にたまたま乗った船が流され、北朝鮮側に救助された」との本人の言い分だけを報じている。
●さらに、「今は朝鮮で幸せに暮らしている」「韓国に戻りたくない」などの金さんの発言を伝え、「彼の意外な発言に日韓のメディアは困惑をしているようだ」とも論評した。
●ただ、今回の家族再会のきっかけについては、「そもそも日本政府が失踪(しっそう)日本人の横田めぐみさんを探したことがすべての始まりだった」とし、小泉純一郎首相の電撃訪朝や金正日総書記が日本人拉致事件に対しての謝罪の経緯などを簡単に説明。
●「日本政府が入手した横田めぐみさんの親族や関係者の頭髪を調べた結果、夫は失踪韓国人の金英男さんであることが判明した」と日本政府が果たした役割について紹介。しかし、めぐみさんの遺骨の真がんをめぐって日朝両国が対立していることも付け加えている。(矢板明夫)
ー産経新聞より
●問題はめぐみさんが生きているか死んでいるかだ。
●元北朝鮮工作員・安明進は語る「めぐさんは金明哲や哲男など、金のロイヤルファミリーの子息の家庭教師をしていると聞いた」とサンデースクランブルで発言していた。
●ワタクシはてっきりめぐみさんは殺されていると思っていたが、この発言を聞いて生きている可能性があると考えるようになった。
●実際、金英夫氏は妻のめぐみさんが国の教育機関に隔離され、再婚し、子供が生まれたのは事実だろう。現在生きているかは保障がないが、めぐみさんが何らかの国家機密に関する情報を握っていて表には出せないのだろう。それを隔離しているのか、処分したのかどちらかであろう。
●こういった場合、めぐみさんは殺害するシステムになっているのかそうでないのか?全ての問題はここにある。
●可能性としては生きているだろう。最後の切り札として取っているのだろう。

中田ヒデ引退

●いきなり引退しましたね。まあ、ブラジル戦のあとの様子を見るとうなずけますが…
●まあ、南アは33歳で年取りすぎてるし、ボルトンでは出番がないので帰国してJリーグに戻るか、レベルの低い海外リーグにいてもしょうがないし、クレバーな中田のきれいな引き際でしょう。
●なんといってもカズなんかと違って勉強ができるらしい。高校時代は東大でもいける、と先生に言われた伝説の持ち主である。
●NYに不動産も持ってるし、生活に何の不安もないだろう。海外の大学に通うという話がスポーツ新聞をにぎわせていますが…

●98年フランス大会(3試合0得点)、02年日韓大会(4試合1得点)、06年ドイツ大会(3試合0得点)と、日本の出場したすべてのW杯本大会のすべての試合に出場した。その3回目の世界への挑戦は、無惨だった。最後と決めていた大会で、中田英のキャリアは終わった。ブラジル戦前の21日、「この試合が最後にならないことを信じ続けて…」と引退をにおわせるメッセージを寄せていた。また、今春のアジアサッカー連盟(AFC)のインタビューにも「06年W杯では個人的な成功を収めたいと強く思っている。たぶんこれが最後のチャンスだろう」と話していた。
●93年U-17(17歳以下)世界選手権、95年ワールドユース(20歳以下)、00年シドニー五輪(23歳以下)と、世代別の3大会すべてで世界のベスト8入りを経験している。だが、W杯では02年の16強が最高で、ベスト8のカベを破ることができなかった。
A代表には96年アトランタ五輪に出場した翌97年の韓国戦(5月)でデビューした。以来、出場したAマッチは77試合。代表の背番号で、大好きな7が並ぶ数字は、潮時を示していたのかもしれない。
●70~80年代にブンデスリーガでプレーした奥寺康彦以来、欧州で活躍した日本人選手だった。98年に移籍したペルージャでは、いきなり10ゴールをマーク。ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナと、05年まで7シーズンにわたってセリエAでプレー。05-06シーズンはプレミアリーグのボルトンに活躍の場を移していた。01年のパルマ移籍の際には、日本人史上最高で今後もおそらく破られることのない31億円の移籍金を記録した。中田英の価値を何よりも証明するものだった。
●現役のうちから東ハトの執行役員を務め、ビジネスにも興味を持っていた。イタリア語、英語を話せる語学力や、幅広い人脈もある。
ー日刊スポーツ
●ワタクシもいろんなプロスポーツ選手を見てきたが彼のような身の処し方は世界でも珍しい。
●大体、スポーツ選手は命一杯現役生活を続けて、引退したらコーチか解説者、タレントになるもの。ビジネス界に転じるのもいるが、アメリカ人なら、牧場を持ったり、教室を開いたり。ヨーロッパ人なら、不動産や金融資産をもって悠々自適な生活を送る人が多い。
●中田のようにまだ20代で引退し、多大な資産を保有しているケースは珍しい。今後、何をするのか楽しみだ。
●ただ、やっかみで言ってるわけじゃないが、スポーツ選手が実業界で成功した例は少ない。逆に中田が成功することによって、世界のスポーツ選手の価値観に影響を与えるモデルが日本から発信できるかもしれない。
●ワールドカップで勝てないとしても個人で世界に影響を与えるライフスタイルが提案できれば、日本は負けても中田は負けてないことを証明できる。本人の狙いも意外とその辺にあるんじゃないか?

推理・秋田児童殺人事件

●護憲君の件は方がついた。問題は綾香ちゃんだ。
●秋田県藤里町の町立小1年米山豪憲君(7)が殺害された事件で、能代署捜査本部は25日、殺人容疑で無職畠山鈴香容疑者(33)を再逮捕した。畠山容疑者はこれまでの調べに豪憲君殺害を認めており、捜査本部は事件の全容解明を目指すとともに、動機の解明に不可欠として4月の長女彩香ちゃん(当時9)の水死との関連を調べる。再逮捕後の調べにも容疑を認めているという。
調べでは、畠山容疑者は5月17日午後3時半ごろ、下校途中の豪憲君に「彩香の思い出に何かもらってほしい」と声を掛けて同町の自宅玄関に招き入れ、首を着物の腰ひもで絞めて殺害した疑い。
捜査本部はこれまでに畠山容疑者の自宅や豪憲君の遺体を遺棄する際に使用した軽乗用車などを捜索し、犯行に使用したとみられる腰ひもなどを押収している。
畠山容疑者は犯行直前の心境について「ほかの子どもたちは元気なのに、なぜ彩香はいないのだろう」と話しており「嫉妬のような気持ちがなかったわけではない」とも供述。〔共同〕 (18:26)
●本当にこんな理由で合憲君を殺害したのだろうか?
●秋田・小1事件 女児水死とつながりは?
●それにしても、謎だらけである。調べでは、畠山容疑者は豪憲君の遺体を、自宅から約八キロ離れた能代市内の米代川岸の道路脇草むらに遺棄した疑いが持たれている。家族ぐるみの親密な付き合いをしていたとされる二家族の間に何が起きたのか。わざわざ車で運びながら、すぐに見つかるのを期待するかのように、無造作に道路脇に放置した狙いは…。
今回の事件の全容解明には、彩香ちゃんの水死との関連の有無を見極める捜査が欠かせない。事故説に傾いていたとされる警察に畠山容疑者が不信感を募らせ、街頭で手書きのビラを配るなど再捜査を強く求めていたからだ。
「雪の残る河原に子どもが一人で行くだろうか」「六キロも流されて遺体に傷がないのはおかしい」。地域の住民の間にも、こんな疑問が広がっていたという。
警察の捜査手法や遺族への説明の仕方が適切さを欠くことはなかったのか。
県警は、豪憲君の行方が分からなくなった直後から、挙動が不審だった畠山容疑者に着目。行動監視を続けるなど、徹底的にマークしてきた。遺体に付着していた毛髪や繊維片などの物証も次々に採取した。しかし、犯行に直結する証拠に欠けるとして、「消去法」による捜査を続行。約二十日がかりで「犯行に関与できるのは畠山容疑者しかいない」との結論に至ったという。
ー中国新聞より
●綾香ちゃんは虐待されており、鈴香が剛健君を殺害したのは間違いない。そうすると…
●元警視庁のジャーナリストとはこう推測する
「離婚してお荷物の娘。再婚したり、他の男と付き合うにも邪魔。そこで保険金を掛けて殺害。しかし、保険金がでない。そこで、この地域の連続児童殺人事件に見せかけ、保険金を得ようとしたのではないか」
●警察の初動捜査が遅れたのはそもそも秋田県警は北朝鮮の密航船などを取り締まる公安系の県警で事件は苦手だという。
●また、地元で風俗産業に従事していたと言われる鈴香が秋田県警に知り合いがいて、事故として処理したのではないかという噂を指摘するジャーナリストもいる。
●綾香ちゃんは事故死か?他殺か?自殺か?鈴香には空白の二時間がある。そこを詰めていけば落とせると、前述のジャーナリストは言う。時間が掛かっているのは初動捜査の不手際を隠蔽するために情報を整理しているのではないか?とも指摘する。
●いずれにせよ、鈴香が真っ黒なのは事実だ。いずれ時間が解決するだろうが、秋田県警の書道捜査の不手際にどう落とし前をつけるのだろうか?豪憲くんの死の後ではこちらのほうが大問題だ。

Monday, July 03, 2006

カオルちゃんから亀田3兄弟~ミナミ大阪ヤンキー論

●先日、衛星放送で「岸和田少年愚連隊・カオルチャン伝説」を観た。
●カオルチャンとは作家・中場利一の「岸和田少年愚連隊」にでてくるモンスターで、実在の人物。映画の中では竹内力が怪演している。
●中場利一(なかば りいち、1959年 -)は、作家。大阪府岸和田市生まれ。
高校中退後、「本の雑誌社」への投稿がきっかけで、1994年、自伝的小説「岸和田少年愚連隊」でデビュー。その他の作品に「岸和田少年愚連隊・血煙り純情編」などがある。平成9年(1997年)7月17日に覚せい剤所持の現行犯で大阪府警察西成署に逮捕された。
●この作家の中場もカオルチャンもそうだが、岸和田一帯には無職のチンピラがごろごろ住んでいる。
●岸和田はかつて商業港として発展し、城下町も置かれた歴史ある町だ。また、明治維新は大阪中の紡績工場があったところで、在日朝鮮人や、沖縄人を過酷な労働条件で酷使した歴史がある。なんといっても有名なのがだんじり祭り。
●その歴史は、元禄16年、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷大社を岸和田城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられ、約300年の歴史と伝統を誇る
●岸和田市には全市で82台のだんじりがあり、大きく9つの地区に分かれる。そのうち2地区が9月に祭礼を行い、残りの7地区が10月に祭礼を行う。
14日早朝、午前6時から一斉に各町のだんじり21台(町内曳きの南上町を除く)が通称カンカン場へ向かって繰り出し、やりまわしを行い、『曳き出し』が始まる。早い町は午前5時半頃には自町を出発し、『曳き出し』に参加する。14日午前9時過ぎより南海岸和田駅前にて『パレード』が行われる。15日午前9時過ぎより祭の最大の神事『宮入り』が岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社で行われ、クライマックスに達する。特に、岸城神社に向かう際の岸和田市役所前(コナカラ坂)のシーンは人気があり、圧巻である。
●関西以外の地方では、あまり知られていないかも知れないが、「だんじり」という山車は、岸和田だけでなく、泉州・河内地域(大阪府南部)の市町や大阪、神戸、奈良など、関西一円の祭の形態として、広く存在している。
●長々とだんじりの説明を挿入してしまいましたが、ワタクシ東京に来て15年経ちますが、首都圏から見た大阪について考えさせられることが多いからです。
●ミナミ大阪ヤンキーカルチャーというのが確実にあります。それはパリ=芸術、ロンドン=パンクみたいに消費される文化としての大阪=ヤンキーなカルチャーです。
●阪南ヤンキーカルチャーの特徴
①女よりツレが大事
連れのことを女性ではなく、男友達をさすのがこの地域の一大特徴。
②クルマ大好き
関空ができた頃、漁業権成金が大量発生して、大量のアメ車、イタ車が売れた。筆者はりんくうタウンのクラブで100台以上の高級外車に乗るヤンキーに遭遇した経験がある。金がなければパクリます。
③働くのが嫌い
とにかく働かない。「大阪で生まれた女」もこれで縁が切れてせいせいしているだろう。中場利一も「一生遊んで暮らしたい」という名エッセイに詳しく書いてます。
④けんかが好き
うまい事いけば「亀田」や「辰吉」に。しかし、末路は「渡辺二郎」の可能性も…
⑤基本的に芝居がかっている
「吐いたつばのまんとけよ」
「耳の穴から手つっこんで、奥歯がたがた言わしたろか」
「われ誰にメンチきっとんのじゃ」
等、第三者(聴衆)を意識した啖呵が満載。これは「火事と喧嘩は江戸の華」文化に合い通じるものがある。武智鉄二先生に言わせると「団十郎の十八番の荒事の元ネタは河内にある」そうです。となると、河内の喧嘩文化は日本文化の源流になる?
●具体例
①映画・井筒和幸「パッチギ」「ガキ帝国」「岸和田少年愚連隊」
Vシネ「ミナミの帝王」「実録・柳川組」
三池崇史「喧嘩の花道」
催洋一「血と骨」
②漫画・どおくまん「ああ花の応援団」
さだやす圭「なんと孫六」
南俊一「ナニワトモアレ」
青木雄二「ナニワ金融道」
はるき宏美「じゃりんこチエ」
③小説・中場利一「岸和田少年愚連隊」
梁石日「血と骨」(2004年に公開された。ビートたけし主演で話題を呼ぶ。昭和の初期から1980年代にかけて、自己中心的に生き、人とかけ離れたその強靭な肉体と性欲を持つ在日朝鮮人男性・金俊平とその男に翻弄されていく周囲の人々の生活を描いた作品)「夜を賭けて」
小松左京「日本アパッチ族」
今東光「悪名」
④音楽・やしきたかじん「東京」
BORO「大阪で生まれた女」
憂歌団全曲
桑名正博「月の灯り」」(覚せい剤で拘留中につくった獄中ソング)
●これらの元ネタは実在の人物であるケースも多く、
①青田赤道(実在の人物。応援団親衛隊長ではなく、様々な人物の合成らしい。詳しくは宝島別冊「大阪ヤンキー列伝」・二ノ宮清純著)
②赤井秀和(元ボクサー。浪速商業)
③前田明(元格闘家。浪速商業)
④カオルチャン、イサミチャン、チュンバ、小鉄(岸和田のレギュラー。以前、近畿日本ツーリストでカオルチャン見学ツアーが主催されたらしい)
⑤松山猛(「パッチギ」の主人公)
⑥金俊平(「血と骨」の主人公。恐ろしい)
●そして、今日、最大の担い手は「亀田3兄弟」(笑)。驚異的な視聴率を稼いでます。おっそろしい話ですが、なぜ、これらがショービジネスとして成り立つのは何故か?その理由を先のだんじりに見る。
●岸和田だんじり祭は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、多くのマスコミに取り上げられたこともあり、それまで、関西の一地方の祭であったものが、一気に全国区の祭、日本を代表する祭へと大きな飛躍をとげた。長い伝統を誇る日本の著名な祭の多くが、資金難や町衆のパワー不足のため、現状を維持し、現状のままを後世へ伝えていくのがやっと、というような時代の中で、岸和田だんじり祭が、現代においてもこれほどの隆盛をきわめている理由は、岸和田だんじり祭そのものの魅力もさることながら、岸和田という街がおかれた、歴史的・地理的な特殊性・偶然性を抜きにしては語れない。
●まず、伝統的な祭が存在するためには、少なくとも江戸時代以前から栄えた街であることが必要である。そのための要件としては、「城下町」「港町」「門前町」等があげられる。確かに「大きな城下町」であった街の多くは、明治以降、「都道府県庁所在地」としてさらに大きな発展を遂げた。ただ、その発展が、祭にとっては逆にあだとなり、城下町として栄え、祭が存在していた中心部では、オフィスビル化・空洞化という現象により、町衆が減少し、その結果として祭の活力がそがれるという結果になってしまったのである。京都の祇園祭などはその典型である。また江戸時代に比較的小さな藩によって築かれた「小さな城下町」の大半は、地方都市として過疎に見舞われ、街の活力とともに祭も活力を失っていったのである。
●岸和田は江戸時代に譜代大名・岡部氏五万三千石の比較的「小さな城下町」として栄えていた。本来であれば、このような「小さな城下町」は明治以降、衰退の道をたどるのが一般的であるが、岸和田は、大都市・大阪から約20kmという、その恵まれた立地のために、戦後、大阪を中心とする「関西大都市圏」に組み込まれる形で、地方の小城下町でありながら、大阪のベッドタウンとしてさらに発展を続け、人口も増加していったのである。このため、岸和田は「空洞化」・「過疎化」のいずれにも見舞われることなく、町衆は増え続け、そのパワーも温存することができたのである。このことが今日の岸和田だんじり祭の発展の礎となったことは忘れてはなるまい。
●前述したように、京都・祇園祭をはじめとする日本を代表する伝統的な祭りが、都市の空洞化・町民の郊外への流出などにより形骸化していく中、岸和田だんじり祭は、300年余りの間、だんじりを保有する各町の住民たち自らの手により、連綿と継承されてきた。現在も、その運営は全て町民・町会により行われ、行政や観光協会がかかわることはほとんどない。また、岸和田だんじり祭は、毎年多数の死傷者を出すことでも知られているが、だんじりが事故を起こしたり、死傷者が出た際に、刑事責任を問われるのは、全てこの「総括責任者」・「曳行責任者」であり、行政の長である市長が責任を問われることはない。岸和田だんじり祭は、現代の平成の時代においても、岸和田市内各町の日常生活の中に根ざした、『生きた祭り』であり、また、このことこそが岸和田だんじり祭のパワーの最大の源泉であるといえよう。
●祭りという伝統が生きているとそれはその祭りがもち続ける文化も生き続ける。それが阪南バッドボーイズのパワーの源泉ではないか。
●後、もう一つ、在日朝鮮人問題がある。「パッチギ」や「ガキ帝国」にリアルに描かれているが、日本人と在日の喧嘩というのは本当によくある話なのである。
●かつて、神代では浪速津では、渡来人達が権力闘争を続けていたであろう。仁徳天皇陵を初め、崇神天皇から雄略天皇まで、大阪に都が置かれていた頃から争いのたえない街なのだ。
●そんなミナミ大阪ヤンキーの中でもっとも成功した例を紹介しよう。「京阪神殺しの軍団・柳川組」だ。
●柳川組(やながわぐみ)は、大阪に本拠を置く日本の愚連隊系暴力団で、三代目山口組の2次団体。 三代目 山口組 膨脹其時(1960年~1964年)全國征伐の 先鋒的 組織 兼 功勞団体.
●柳川次郎が大阪 キタで形成した一派が発展して、1958年に「柳川組」として正式に結成。 1959年、柳川が三代目山口組若頭・地道行雄(地道組組長)から舎弟盃を受け、山口組に傘下入りした。明友会 事件の 功勞に 1960年12月13日、三代目山口組(組長・田岡一雄)の直参に昇格。 当時,全国の極道たちは,恐るべき戦闘力の 柳川組を'殺しの軍団'と呼んだ. 全盛期時, 73団体, 組員 1700名に(準構成員含むと 2800名) 全国の 1道 2府 10縣の 進出. 山口組には武闘派の柳川組を山口組内外に知らしめた. 三代目山口組 最強派閥として全国最強武闘派 2次団体だった. 三代目時代に二次団体として全国唯一広域暴力団に指定された組織。
●柳川が長期服役することになり、1964年に谷川康太郎が2代目組長に就任したが、その谷川も1967年暮れに逮捕されるなど、「第一次頂上作戦」において集中的な取り締まりを受け、遂に1969年4月9日、柳川と谷川は獄中から解散を声明。 2人は同年8月、“山口組本家に無断で組を解散した”ことを問われて絶縁処分を受けた。
●残存勢力は石田組組長・石田章六、野澤組組長・野澤儀太郎、金田組組長・金田三俊、藤原組組長・藤原定太郎の4人(いわゆる「柳川組四天王」)が1969年7月に山口組直参に昇格して引き継がれるなど、その後の山口組においても大きな位置を占めている。
●阪南は「暴力」「祭り」「地下経済」など様々な要素が絡まりあい、近代以前の野生が繁殖している貴重な地域なのだ。江戸を失った今、京都文化と共に関西が誇る偉大なカルチャーなのだ。

追悼・誰が橋本龍太郎を殺したか?

●犯人は小泉純一郎と中国共産党、そしてあなたです(笑)。
●政権を失い地にまみれたかつてのプリンスの悲惨な末路と言っては言いすぎか…
●首相などを歴任した橋本龍太郎氏が1日午後2時、多臓器不全と敗血症性ショックのため、入院していた東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。68歳だった。
●橋本氏は6月4日夜に、腹痛を訴え、同センターに緊急入院。腸管虚血と診断され、5日に大腸の大部分と小腸の一部を切除する緊急手術を受けた後、集中治療室(ICU)で治療を続けていた。 
●橋本氏は総社市出身。慶応大法学部政治学科卒業後、呉羽紡績(現・東洋紡績)勤務などを経て、1963年11月の衆院選に初当選。以来、昨年8月公示の衆院選に立候補せず政界を引退するまで、旧岡山2区、衆院小選挙区制導入に伴う岡山4区で計14回の当選を重ねた。 早くから厚生族として頭角を現し、1978年発足の第1次大平内閣に厚生相として初入閣、86年7月に発足した第3次中曽根内閣では運輸相として2回目の入閣を果たし、国鉄民営化にらつ腕を振るい「政策通」の評価を不動のものとした。 
●消費税導入とリクルート事件の混乱を収拾するため、国民人気の高い点も買われ89年6月には自民党幹事長に抜てきされ、その後、党政調会長、大蔵相、通産相などを歴任。95年10月には党総裁に就任し、96年1月から98年7月までの在任2年7カ月間には、景気回復にも目配りしながら構造改革・行政改革など「6大改革」に強い決意で取り組む。特に外交は対米外交一辺倒の感がある現在の小泉内閣に危ぐを感じたせいか執念を燃やし、02年2月に心臓疾患で倒れて手術を受けてからも「日本の顔」の一人として精力的に海外を飛び回った。
●直接の死因は多臓器不全が原因だが、間接的には竹下派崩壊が原因ではないか?まず、①日本歯科医師会闇献金事件で告発されたが、これも政権が竹下派から、小泉に移ったことが遠因と考えられる。数々の金脈は田中ー竹下ラインで築かれた遺産である。これで完全に政治生命を絶たれ、政界引退を決意した。さぞかし小泉はにんまりしただろう。また、②先の訪中も心臓疾患で体調は万全ではなかった。元々、竹下派は中国と太いパイプを持っている。しかし、この時期に訪中しても中国側には小泉に対するブラフになったとしても、橋龍には何のメリットもないはず。まさか某大勲位みたいに政界に存在感を見せ付けたいわけでもなかろう。これでは櫻井よしこが指摘したように中国に女スパイとの関係に関する弱みでも握られているのだは?とかんぐられても仕方ない。田中角栄の訪中以来のいわば、これも竹下派の財産である。しかし、政権から転げ落ちた今、これらは負の遺産となって、その尻拭いを派閥の長である橋龍に降りかかってきた。
●橋龍の悲劇は③この時にトラブルシューティングできる寝業師が派閥に誰もいなかったことだ。大番頭の野中は引退、手代の鈴木宗男は離脱。そして本当の意味での子分がいない橋龍はこれらのトラブルに対処できず、悶死したのではないか。最後の晴れ舞台の中国訪問も政局を動かすには至らず、ただ、中国のために寿命を縮めただけの結果に終わってしまった。本人は行きたがってなっかただろうが、派閥の長として、または、中国に弱みを握られていたのかは知らないが…。結局、中国利権はかつてのライバルで民主党党首の小沢一郎に引き継がれた。これも橋龍の死に合わせたわけではないだろうが、中国が政治的生命を終えた橋龍を見限って、小沢に乗り換えたのは事実だ。事前にこれを知った橋龍は相当なショックを受けたのではないか。その橋龍が亡くなった週明けに小沢が訪中するのもなんとも皮肉だ。機上で小沢は何を思うのだろう。
●これは主犯・小泉による橋龍殺人事件とも見られる。総選挙による竹下派の崩壊、鈴木宗男追放、野中離脱、日本歯科医師会、靖国問題による中共との摩擦等、これらの小泉の仕掛けの全てが橋龍の命を縮めたともいえる。
●結局、小泉がやりたかったことは「自民党=経世会」をぶち壊すことで、日本の構造改革ではなかった。その意味では小泉は派閥の長の死を任期満了直前に目の当たりにして、本当にラッキーな男である。
●肝心の構造改革のほうは実は橋龍の受け売りの部分も多く、そちらの政策を小泉が引き継いだのは皮肉な運命だ。もちろん達成はしてないし、橋龍が思い描いたものとは開きがあるだろうが…
●ただ、一ついえることは、時代(国民)は橋龍=経世会ではなく。小泉を選んだ。小泉がこの後、歴史にどう名前が刻まれるのかはわからない。ただ、橋龍の場合は評価はほぼ確定している。それは「田中金脈政治に幕を引いた男」。つまり、ローマ帝国最後の皇帝のように。
●それとも歴史は繰り返されるのだろうか?二男の岳氏は衆院議員、弟の大二郎氏は高知県知事。父や兄の意志を継ぎ、経世会は復活するのか?まあ、しないだろうね。
●そういった意味では橋龍は子分も身内にも薫陶を与えず、ただ田中=竹下の遺産を食い潰し、中国に頭の上がらなく、最後は国民にも見放されるほど、カリスマ性もないつまらない能吏だったということだ。官僚向きだが、政治家、ましてや宏池会でなく、金権政治の本流・経世会の領袖は務まらなかった。そのことが橋龍が早逝した真の理由じゃなかろうか…
●人間、自分に向いた仕事につくことが一番ですな…
●ただ、護岸不遜と言われた橋龍も家庭ではいいお父さんだったらしい。息子の継がせることも嫌がっていたし、父・富三郎が身体障害者であったことから弱者の視点に立つ政治を目指したと言うのも政治原点として見逃せない部分だ。有名なアエラの「現代の肖像」(インタビュアー・吉田司)を興味があれば読んでみることをお薦めします。

「生きる伝説落語家」立川談志論

●いよいよ真打登場です。まずは立川談志の紹介から。(ウィキペディアより)
●七代目立川談志(1936年1月2日 - )は、1960年代~の落語界を代表する噺家の一人である。本名は松岡克由。古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けている。落語のほか講談、漫談をも得意とするなど、芸域は広い。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。噺家としての実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主である。その後、落語に専念することになるが、落語協会の真打昇進試験制度の運用をめぐって落語協会会長であり、自分の師匠でもある、小さんと対立、1983年に落語協会を離脱して落語立川流を創設し、その家元となる。参議院選挙では当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という落語家らしい言葉を残す。三木内閣で沖縄開発庁政務次官に就任するが、議員の選挙資金に関する就任時の発言「子供の面倒を親分が見るのは当然」が問題化。さらに政務次官初仕事の沖縄海洋博視察のときに二日酔いだったことが判明。記者に「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と聞かれ、談志曰く「酒に決まってんだろ」。あまりに正直過ぎた返答でますます大騒ぎとなり、しかも弁明を行うはずの委員会を寄席を理由に欠席したため自民党内部からも反発が起こり結局在任3日で辞任するという快挙(?)を成し遂げた。 NHk受信料問題を質問するなど先見の明のあるところも見せている。談志本人の政治的ポリシーは相当に強硬な保守系であり、在任中は特に共産党議員への野次に力を入れた。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交が深い。保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いている。その反面、元社会党衆議院議員上田哲の選挙応援にも出たこともある。談志曰く「議会には反対派も必要だ」というが、政治レベル以外での個人的な交友関係とも思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、談志と「老人党東京」を旗揚げしている。
●評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方ではフェミニストでありオポチュニストである。メディアの中での意見や考えも、一貫してないのが多く、例えば小泉純一郎を三流呼ばわりしたと思ったら、他のメディアでは素晴しい一流の政治家と言ったり、芸人や有名人の評価も正反対の評価を各地で言っている。しかし、元々、人と同じ考えが嫌いな彼の性格がそうさせているのと、全てを芸として語っていて、あえて嫌いな人を持ち上げたりしていると考えられる。
●熱海に出かけたが弟子たちの働きぶりが気に入らず、弟子全員の衣類と財布を持って先に東京に帰ってしまい、弟子たちはどうしようもなく旅館から電車賃を借り、旅館の浴衣姿でやっと帰ってきたという。これは談志自身の著作・弟子の著作双方に記載されているので実話であろう。いかに荒っぽい悪戯であろうと「洒落」の一言で済ませてしまう乱暴な談志を、唯一閉口させたのは石井伊吉(毒蝮三太夫)である。駅のホームで電車を待っていた談志を電車入線間際に線路に突き落とそうとし、運良く落ちずに済んだ談志が「死んだらどうするんだ!」と怒鳴りつけたが、毒蝮笑って曰く「洒落のわからないやつだと言ってやる」。彼に「毒蝮三太夫」の芸名を与えたのは談志である。
●爆笑問題がデビューしたての頃、太田の持つ才能をすぐに見抜き、高評価した談志は太田に対し、「天下、獲っちゃえよ。」と応援すると同時に「(相方の)田中だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなか居ないもんだ。」と田中が太田にとって欠かせない存在である事を説いた。憧れの存在であった談志に言われた事を太田は実践している。田中に対して「悩みが存在しないのが不思議。」、「全く成長していい。」、「人間として気持ち悪い。」と田中をコケにする発言を連発しているものの一度も「解散」を持ちかけた事は無い。むしろ太田のちょっかいにキレた田中が勢いで「解散」を口にしている
●手塚治虫漫画の熱烈なファンで、生前の手塚本人との親交も深く、声優としてアニメ映画『ジャングル大帝』に参加した(密猟者ハムエッグ役)。声優としての出演には他に『ドラ猫大将』などがある。ダウンタウンが全盛期のとき、たくさんいるつまらない若手芸人の一組としての認識しかなかったが、後年初めて「ガキの使いやあらへんで!」を見て「これはまさしく漫才の間だ」と評価し「見損なっていた」と評した。のちに松本プロデュースのビデオ「ビジュアルバム」が出たときのテレビ朝日「HITOSI MATUMOTO VISUALOVE」という特番で、コメントを寄せたりもしている。
●爆笑オンエアバトルのチャンピオン大会(第1回、第2回、第5回)の特別審査員を務めたことがあり、出演者に秘密で客席で観戦していた。当時のチャンピオン大会には、談志が特に気に入った芸人に特別賞を与えており、第1回は底ぬけAIR-LINE、第2回はラーメンズが受賞している。またM-1グランプリの第2回大会の審査員も務めている。M-1での評価の仕方は非常にはっきりしていて、秀作には80点、良作には70点、駄作には50点の三段階しか存在しなかった。談志は爆笑オンエアバトルを「とてもすばらしい番組」と言った。とても気に入っている。
●ひところに比べてテレビ出演は減ったが、2005年現在、東京MXテレビで野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』に出演中である。2005年10月6日から2006年3月まで『おとなの時間割「談志の遺言2005(2006)」(TBSラジオ木曜21時~22時、文化放送「立川談志 最後のラジオ」以来のラジオ番組となる)に出演。 2005年4月から、NHKラジオ第1放送でラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(おしゃべりクイズ疑問の館の枠で月一回放送)のレギュラーを毒蝮とともに務めている。
●落語口演の活字化のほか、落語に関するエッセイ的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期から著した『現代落語論』が代表作と言える。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・俳優・歌手・ストリッパーなどの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。
『現代落語論』 
『あなたも落語家になれる』
『談志人生全集』
『立川談志独り会』
『新釈 落語咄』
『談志楽屋噺』
『食い物を粗末にするな』
●まあ、大変な人物ですが、他の落語家とどこが違うのか?どれ位、すごいのか? 
巷間言われる当代一の名人と言うのはまあ間違いないだろう。ライバルと言われた志ん朝は逝去し、同年代の円楽、歌丸とは格が違う。釣合うのは人間国宝の西の米朝ぐらいか。後輩の小三治、小朝、はまだまだだし、枝雀が生きてれば好敵手となったのかもしれない。まあ、長生きはしてみるもんですな。
●どこが違うのかは近代落語の歴史を紐解かなければならない。落語は元々、江戸、上方で江戸時代に発展してきた演芸。人情ものや、滑稽話、怪談など様々なジャンルで発展してきた。それが江戸っ子たちに愛されてきた。それが明治維新で薩長の落語を聴いたこともない軍人に「落語とはどいううものか、見せてみい」ということで当時、活躍していた三遊亭円朝が演じたのが判り易い人情もの。まあ、田舎もの相手だから。そこが江戸落語の第二の出発点となってしまった。
●この江戸っ子=下町=人情のわかりやすい図式に反論するのが談志落語。現代では古典となった「現代落語論」で、師匠はこういう。「落語は業の肯定である」。つまり、人間の本性を善にみるのではなく、悪に見るというと解り易い。さらに師匠は人間の悪を肯定するのである。
●かつて、こういった落語家は古今亭志ん生がいた。志ん生のすさまじい「小金餅」や「風呂敷」に人間の業の肯定が駄洒落の渦の中にいきずいている。師匠曰く「志ん生の家に生まれたかった」。志ん朝はその実子であり、師匠曰く「唯一、金だして寄席に足はこんでもいい噺家」と賞賛した。
●師匠の落語の自論で有名なのは自分の落語は「イリュージョン」。これは一種の幻覚、幻影を舞台の上で表現しているとも言え、自分の落語は出来不出来が激しい、このイリュージョン状態になるかならないか、やってみないとわからないそうだ。一種の虚実皮膜論(近松門左衛門の芝居論。現実か空想か解らなくなる境地に芸術の神が宿ると言う考え)だ。そういう意味では、見事な江戸前の口跡で見せる志ん朝のほうが芸は安定している。また、違った意味では師匠はフロイト学者の岸田秀氏を信奉しており、「いっさいは幻想であると」いう仏教にも似た哲学を落語の上で表現しているのかもしれない。ワタクシはたまたま談志イリュージョンを見たことがある。それは2004年に見た「居残り佐平次」と「ねずみ穴」だ。これは落語通のコラムニスト・堀井健一郎が2004年のベストに挙げていたので、ワタクシの私見だけではない。
●「居残り」は金のない廓に居残った男が口先だけで乗り切り、金を騙し取る話で、まさに業の肯定を絵に書いたような男だ。この佐平治のちょうちん持ちの見事ぶり、また、その裏に抱えた虚無感を表現している。余談だが、川島雄三の「幕末太陽伝」でもフランキー堺が佐平治を好演している。また「ねずみ穴」は火事が起こって家に空いたねずみの穴が気になってしょうがない小心者の噺だが、こちらも鬼気迫る名演を披露した。ワタクシが思うに、師匠は普段は佐平治を実人生でも演じているようだが、実際はこの「ねずみ穴」の主人公のようなところがある。ものすごい吝嗇家でもある、そんな師匠の内面をのぞかせる噺だった。
●立川談志の息子さんが全く仕事をしないので、聞いてみると「お父さんがこんだけ働いてるんだから、息子は働かなくてもいいだろう」と反論され、「落語に対する見方が変わった」という。落語みたいな噺だが、息子さんは現在、師匠のマネージャーをやっている。単なる親馬鹿な部分もこの一代の天才はもっている。娘にもすごく甘いし。
●そんな親馬鹿な師匠も弟子には厳しい。扶桑社「エンタクシー」の立川談春の「談春の青春」に余すことなく厳しいエピソードが満載されているので、興味のある方は眼を通して欲しい。(今号は巻頭で同世代でもう一方の風雲児・石原慎太郎都知事と対談してます)
●厳しいだけあって、立川一門はいい弟子が育っている。前出の談春もいい噺家だ。さらに志らく、志の輔と実力者を輩出しているのものの一門の強みだ。その代り、逃げ出す弟子も多数いるが…(先日も付き人の風吉が脱会した。センスはすごくよかったのだが…残念)
●元々は小さんの弟子で落語協会を担う若手のホープだったのだが、真打の昇進で不平等だと一門を脱会し、30年が経つ。先日もこぶ平が名跡・林家正蔵を襲名した時も、批判していたが、今や、どちらが正しかったのかは玄人ならお解りだろう。それにしても現代の二世落語家はどいつもこいつもつまらない(花録、正蔵、いっ平)
●立川談志は現在、七代目でかつての先代は珍芸・滑稽芸で明治時代、一世を風靡した。そんな事も師匠の頭にはあるのだろう。本人は桂文楽系の名人顔をするのを嫌がり、ひょうきんな顔や仕草をよくするのも襲名名に対するこだわりか、それとも江戸っ子のはにかみか(本人は結構シャイなひとでもある)。また、自宅の家の中はNBAのぬいぐるみだらけの不思議なおじさんでもある。
●師匠が亡くなったら誰がこの大名跡を継ぐのか?今から(といってもそんな遠い先の話ではないが)心配だ。
●世相講談も得意で、独自の文明論を展開し、政治にも一家言あり、かつてはテレビタレントとしても一世を風靡した(「笑点」は師匠志の発明。初代司会者も担当した)多才な人なので、書き出すととどまらない。今回は本丸の噺家としての師匠を論じて、終わりにします。
●談志ってのはどんな落語家だい?こころざしをもって談する人です。そのまんまやないかい。はい、そのまんまです。