追悼・誰が橋本龍太郎を殺したか?
●犯人は小泉純一郎と中国共産党、そしてあなたです(笑)。
●政権を失い地にまみれたかつてのプリンスの悲惨な末路と言っては言いすぎか…
●首相などを歴任した橋本龍太郎氏が1日午後2時、多臓器不全と敗血症性ショックのため、入院していた東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。68歳だった。
●橋本氏は6月4日夜に、腹痛を訴え、同センターに緊急入院。腸管虚血と診断され、5日に大腸の大部分と小腸の一部を切除する緊急手術を受けた後、集中治療室(ICU)で治療を続けていた。
●橋本氏は総社市出身。慶応大法学部政治学科卒業後、呉羽紡績(現・東洋紡績)勤務などを経て、1963年11月の衆院選に初当選。以来、昨年8月公示の衆院選に立候補せず政界を引退するまで、旧岡山2区、衆院小選挙区制導入に伴う岡山4区で計14回の当選を重ねた。 早くから厚生族として頭角を現し、1978年発足の第1次大平内閣に厚生相として初入閣、86年7月に発足した第3次中曽根内閣では運輸相として2回目の入閣を果たし、国鉄民営化にらつ腕を振るい「政策通」の評価を不動のものとした。
●消費税導入とリクルート事件の混乱を収拾するため、国民人気の高い点も買われ89年6月には自民党幹事長に抜てきされ、その後、党政調会長、大蔵相、通産相などを歴任。95年10月には党総裁に就任し、96年1月から98年7月までの在任2年7カ月間には、景気回復にも目配りしながら構造改革・行政改革など「6大改革」に強い決意で取り組む。特に外交は対米外交一辺倒の感がある現在の小泉内閣に危ぐを感じたせいか執念を燃やし、02年2月に心臓疾患で倒れて手術を受けてからも「日本の顔」の一人として精力的に海外を飛び回った。
●直接の死因は多臓器不全が原因だが、間接的には竹下派崩壊が原因ではないか?まず、①日本歯科医師会闇献金事件で告発されたが、これも政権が竹下派から、小泉に移ったことが遠因と考えられる。数々の金脈は田中ー竹下ラインで築かれた遺産である。これで完全に政治生命を絶たれ、政界引退を決意した。さぞかし小泉はにんまりしただろう。また、②先の訪中も心臓疾患で体調は万全ではなかった。元々、竹下派は中国と太いパイプを持っている。しかし、この時期に訪中しても中国側には小泉に対するブラフになったとしても、橋龍には何のメリットもないはず。まさか某大勲位みたいに政界に存在感を見せ付けたいわけでもなかろう。これでは櫻井よしこが指摘したように中国に女スパイとの関係に関する弱みでも握られているのだは?とかんぐられても仕方ない。田中角栄の訪中以来のいわば、これも竹下派の財産である。しかし、政権から転げ落ちた今、これらは負の遺産となって、その尻拭いを派閥の長である橋龍に降りかかってきた。
●橋龍の悲劇は③この時にトラブルシューティングできる寝業師が派閥に誰もいなかったことだ。大番頭の野中は引退、手代の鈴木宗男は離脱。そして本当の意味での子分がいない橋龍はこれらのトラブルに対処できず、悶死したのではないか。最後の晴れ舞台の中国訪問も政局を動かすには至らず、ただ、中国のために寿命を縮めただけの結果に終わってしまった。本人は行きたがってなっかただろうが、派閥の長として、または、中国に弱みを握られていたのかは知らないが…。結局、中国利権はかつてのライバルで民主党党首の小沢一郎に引き継がれた。これも橋龍の死に合わせたわけではないだろうが、中国が政治的生命を終えた橋龍を見限って、小沢に乗り換えたのは事実だ。事前にこれを知った橋龍は相当なショックを受けたのではないか。その橋龍が亡くなった週明けに小沢が訪中するのもなんとも皮肉だ。機上で小沢は何を思うのだろう。
●これは主犯・小泉による橋龍殺人事件とも見られる。総選挙による竹下派の崩壊、鈴木宗男追放、野中離脱、日本歯科医師会、靖国問題による中共との摩擦等、これらの小泉の仕掛けの全てが橋龍の命を縮めたともいえる。
●結局、小泉がやりたかったことは「自民党=経世会」をぶち壊すことで、日本の構造改革ではなかった。その意味では小泉は派閥の長の死を任期満了直前に目の当たりにして、本当にラッキーな男である。
●肝心の構造改革のほうは実は橋龍の受け売りの部分も多く、そちらの政策を小泉が引き継いだのは皮肉な運命だ。もちろん達成はしてないし、橋龍が思い描いたものとは開きがあるだろうが…
●ただ、一ついえることは、時代(国民)は橋龍=経世会ではなく。小泉を選んだ。小泉がこの後、歴史にどう名前が刻まれるのかはわからない。ただ、橋龍の場合は評価はほぼ確定している。それは「田中金脈政治に幕を引いた男」。つまり、ローマ帝国最後の皇帝のように。
●それとも歴史は繰り返されるのだろうか?二男の岳氏は衆院議員、弟の大二郎氏は高知県知事。父や兄の意志を継ぎ、経世会は復活するのか?まあ、しないだろうね。
●そういった意味では橋龍は子分も身内にも薫陶を与えず、ただ田中=竹下の遺産を食い潰し、中国に頭の上がらなく、最後は国民にも見放されるほど、カリスマ性もないつまらない能吏だったということだ。官僚向きだが、政治家、ましてや宏池会でなく、金権政治の本流・経世会の領袖は務まらなかった。そのことが橋龍が早逝した真の理由じゃなかろうか…
●人間、自分に向いた仕事につくことが一番ですな…
●ただ、護岸不遜と言われた橋龍も家庭ではいいお父さんだったらしい。息子の継がせることも嫌がっていたし、父・富三郎が身体障害者であったことから弱者の視点に立つ政治を目指したと言うのも政治原点として見逃せない部分だ。有名なアエラの「現代の肖像」(インタビュアー・吉田司)を興味があれば読んでみることをお薦めします。
●政権を失い地にまみれたかつてのプリンスの悲惨な末路と言っては言いすぎか…
●首相などを歴任した橋本龍太郎氏が1日午後2時、多臓器不全と敗血症性ショックのため、入院していた東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。68歳だった。
●橋本氏は6月4日夜に、腹痛を訴え、同センターに緊急入院。腸管虚血と診断され、5日に大腸の大部分と小腸の一部を切除する緊急手術を受けた後、集中治療室(ICU)で治療を続けていた。
●橋本氏は総社市出身。慶応大法学部政治学科卒業後、呉羽紡績(現・東洋紡績)勤務などを経て、1963年11月の衆院選に初当選。以来、昨年8月公示の衆院選に立候補せず政界を引退するまで、旧岡山2区、衆院小選挙区制導入に伴う岡山4区で計14回の当選を重ねた。 早くから厚生族として頭角を現し、1978年発足の第1次大平内閣に厚生相として初入閣、86年7月に発足した第3次中曽根内閣では運輸相として2回目の入閣を果たし、国鉄民営化にらつ腕を振るい「政策通」の評価を不動のものとした。
●消費税導入とリクルート事件の混乱を収拾するため、国民人気の高い点も買われ89年6月には自民党幹事長に抜てきされ、その後、党政調会長、大蔵相、通産相などを歴任。95年10月には党総裁に就任し、96年1月から98年7月までの在任2年7カ月間には、景気回復にも目配りしながら構造改革・行政改革など「6大改革」に強い決意で取り組む。特に外交は対米外交一辺倒の感がある現在の小泉内閣に危ぐを感じたせいか執念を燃やし、02年2月に心臓疾患で倒れて手術を受けてからも「日本の顔」の一人として精力的に海外を飛び回った。
●直接の死因は多臓器不全が原因だが、間接的には竹下派崩壊が原因ではないか?まず、①日本歯科医師会闇献金事件で告発されたが、これも政権が竹下派から、小泉に移ったことが遠因と考えられる。数々の金脈は田中ー竹下ラインで築かれた遺産である。これで完全に政治生命を絶たれ、政界引退を決意した。さぞかし小泉はにんまりしただろう。また、②先の訪中も心臓疾患で体調は万全ではなかった。元々、竹下派は中国と太いパイプを持っている。しかし、この時期に訪中しても中国側には小泉に対するブラフになったとしても、橋龍には何のメリットもないはず。まさか某大勲位みたいに政界に存在感を見せ付けたいわけでもなかろう。これでは櫻井よしこが指摘したように中国に女スパイとの関係に関する弱みでも握られているのだは?とかんぐられても仕方ない。田中角栄の訪中以来のいわば、これも竹下派の財産である。しかし、政権から転げ落ちた今、これらは負の遺産となって、その尻拭いを派閥の長である橋龍に降りかかってきた。
●橋龍の悲劇は③この時にトラブルシューティングできる寝業師が派閥に誰もいなかったことだ。大番頭の野中は引退、手代の鈴木宗男は離脱。そして本当の意味での子分がいない橋龍はこれらのトラブルに対処できず、悶死したのではないか。最後の晴れ舞台の中国訪問も政局を動かすには至らず、ただ、中国のために寿命を縮めただけの結果に終わってしまった。本人は行きたがってなっかただろうが、派閥の長として、または、中国に弱みを握られていたのかは知らないが…。結局、中国利権はかつてのライバルで民主党党首の小沢一郎に引き継がれた。これも橋龍の死に合わせたわけではないだろうが、中国が政治的生命を終えた橋龍を見限って、小沢に乗り換えたのは事実だ。事前にこれを知った橋龍は相当なショックを受けたのではないか。その橋龍が亡くなった週明けに小沢が訪中するのもなんとも皮肉だ。機上で小沢は何を思うのだろう。
●これは主犯・小泉による橋龍殺人事件とも見られる。総選挙による竹下派の崩壊、鈴木宗男追放、野中離脱、日本歯科医師会、靖国問題による中共との摩擦等、これらの小泉の仕掛けの全てが橋龍の命を縮めたともいえる。
●結局、小泉がやりたかったことは「自民党=経世会」をぶち壊すことで、日本の構造改革ではなかった。その意味では小泉は派閥の長の死を任期満了直前に目の当たりにして、本当にラッキーな男である。
●肝心の構造改革のほうは実は橋龍の受け売りの部分も多く、そちらの政策を小泉が引き継いだのは皮肉な運命だ。もちろん達成はしてないし、橋龍が思い描いたものとは開きがあるだろうが…
●ただ、一ついえることは、時代(国民)は橋龍=経世会ではなく。小泉を選んだ。小泉がこの後、歴史にどう名前が刻まれるのかはわからない。ただ、橋龍の場合は評価はほぼ確定している。それは「田中金脈政治に幕を引いた男」。つまり、ローマ帝国最後の皇帝のように。
●それとも歴史は繰り返されるのだろうか?二男の岳氏は衆院議員、弟の大二郎氏は高知県知事。父や兄の意志を継ぎ、経世会は復活するのか?まあ、しないだろうね。
●そういった意味では橋龍は子分も身内にも薫陶を与えず、ただ田中=竹下の遺産を食い潰し、中国に頭の上がらなく、最後は国民にも見放されるほど、カリスマ性もないつまらない能吏だったということだ。官僚向きだが、政治家、ましてや宏池会でなく、金権政治の本流・経世会の領袖は務まらなかった。そのことが橋龍が早逝した真の理由じゃなかろうか…
●人間、自分に向いた仕事につくことが一番ですな…
●ただ、護岸不遜と言われた橋龍も家庭ではいいお父さんだったらしい。息子の継がせることも嫌がっていたし、父・富三郎が身体障害者であったことから弱者の視点に立つ政治を目指したと言うのも政治原点として見逃せない部分だ。有名なアエラの「現代の肖像」(インタビュアー・吉田司)を興味があれば読んでみることをお薦めします。
0 Comments:
Post a Comment
<< Home