Monday, July 03, 2006

「生きる伝説落語家」立川談志論

●いよいよ真打登場です。まずは立川談志の紹介から。(ウィキペディアより)
●七代目立川談志(1936年1月2日 - )は、1960年代~の落語界を代表する噺家の一人である。本名は松岡克由。古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けている。落語のほか講談、漫談をも得意とするなど、芸域は広い。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。噺家としての実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主である。その後、落語に専念することになるが、落語協会の真打昇進試験制度の運用をめぐって落語協会会長であり、自分の師匠でもある、小さんと対立、1983年に落語協会を離脱して落語立川流を創設し、その家元となる。参議院選挙では当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という落語家らしい言葉を残す。三木内閣で沖縄開発庁政務次官に就任するが、議員の選挙資金に関する就任時の発言「子供の面倒を親分が見るのは当然」が問題化。さらに政務次官初仕事の沖縄海洋博視察のときに二日酔いだったことが判明。記者に「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と聞かれ、談志曰く「酒に決まってんだろ」。あまりに正直過ぎた返答でますます大騒ぎとなり、しかも弁明を行うはずの委員会を寄席を理由に欠席したため自民党内部からも反発が起こり結局在任3日で辞任するという快挙(?)を成し遂げた。 NHk受信料問題を質問するなど先見の明のあるところも見せている。談志本人の政治的ポリシーは相当に強硬な保守系であり、在任中は特に共産党議員への野次に力を入れた。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交が深い。保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いている。その反面、元社会党衆議院議員上田哲の選挙応援にも出たこともある。談志曰く「議会には反対派も必要だ」というが、政治レベル以外での個人的な交友関係とも思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、談志と「老人党東京」を旗揚げしている。
●評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方ではフェミニストでありオポチュニストである。メディアの中での意見や考えも、一貫してないのが多く、例えば小泉純一郎を三流呼ばわりしたと思ったら、他のメディアでは素晴しい一流の政治家と言ったり、芸人や有名人の評価も正反対の評価を各地で言っている。しかし、元々、人と同じ考えが嫌いな彼の性格がそうさせているのと、全てを芸として語っていて、あえて嫌いな人を持ち上げたりしていると考えられる。
●熱海に出かけたが弟子たちの働きぶりが気に入らず、弟子全員の衣類と財布を持って先に東京に帰ってしまい、弟子たちはどうしようもなく旅館から電車賃を借り、旅館の浴衣姿でやっと帰ってきたという。これは談志自身の著作・弟子の著作双方に記載されているので実話であろう。いかに荒っぽい悪戯であろうと「洒落」の一言で済ませてしまう乱暴な談志を、唯一閉口させたのは石井伊吉(毒蝮三太夫)である。駅のホームで電車を待っていた談志を電車入線間際に線路に突き落とそうとし、運良く落ちずに済んだ談志が「死んだらどうするんだ!」と怒鳴りつけたが、毒蝮笑って曰く「洒落のわからないやつだと言ってやる」。彼に「毒蝮三太夫」の芸名を与えたのは談志である。
●爆笑問題がデビューしたての頃、太田の持つ才能をすぐに見抜き、高評価した談志は太田に対し、「天下、獲っちゃえよ。」と応援すると同時に「(相方の)田中だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなか居ないもんだ。」と田中が太田にとって欠かせない存在である事を説いた。憧れの存在であった談志に言われた事を太田は実践している。田中に対して「悩みが存在しないのが不思議。」、「全く成長していい。」、「人間として気持ち悪い。」と田中をコケにする発言を連発しているものの一度も「解散」を持ちかけた事は無い。むしろ太田のちょっかいにキレた田中が勢いで「解散」を口にしている
●手塚治虫漫画の熱烈なファンで、生前の手塚本人との親交も深く、声優としてアニメ映画『ジャングル大帝』に参加した(密猟者ハムエッグ役)。声優としての出演には他に『ドラ猫大将』などがある。ダウンタウンが全盛期のとき、たくさんいるつまらない若手芸人の一組としての認識しかなかったが、後年初めて「ガキの使いやあらへんで!」を見て「これはまさしく漫才の間だ」と評価し「見損なっていた」と評した。のちに松本プロデュースのビデオ「ビジュアルバム」が出たときのテレビ朝日「HITOSI MATUMOTO VISUALOVE」という特番で、コメントを寄せたりもしている。
●爆笑オンエアバトルのチャンピオン大会(第1回、第2回、第5回)の特別審査員を務めたことがあり、出演者に秘密で客席で観戦していた。当時のチャンピオン大会には、談志が特に気に入った芸人に特別賞を与えており、第1回は底ぬけAIR-LINE、第2回はラーメンズが受賞している。またM-1グランプリの第2回大会の審査員も務めている。M-1での評価の仕方は非常にはっきりしていて、秀作には80点、良作には70点、駄作には50点の三段階しか存在しなかった。談志は爆笑オンエアバトルを「とてもすばらしい番組」と言った。とても気に入っている。
●ひところに比べてテレビ出演は減ったが、2005年現在、東京MXテレビで野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』に出演中である。2005年10月6日から2006年3月まで『おとなの時間割「談志の遺言2005(2006)」(TBSラジオ木曜21時~22時、文化放送「立川談志 最後のラジオ」以来のラジオ番組となる)に出演。 2005年4月から、NHKラジオ第1放送でラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(おしゃべりクイズ疑問の館の枠で月一回放送)のレギュラーを毒蝮とともに務めている。
●落語口演の活字化のほか、落語に関するエッセイ的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期から著した『現代落語論』が代表作と言える。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・俳優・歌手・ストリッパーなどの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。
『現代落語論』 
『あなたも落語家になれる』
『談志人生全集』
『立川談志独り会』
『新釈 落語咄』
『談志楽屋噺』
『食い物を粗末にするな』
●まあ、大変な人物ですが、他の落語家とどこが違うのか?どれ位、すごいのか? 
巷間言われる当代一の名人と言うのはまあ間違いないだろう。ライバルと言われた志ん朝は逝去し、同年代の円楽、歌丸とは格が違う。釣合うのは人間国宝の西の米朝ぐらいか。後輩の小三治、小朝、はまだまだだし、枝雀が生きてれば好敵手となったのかもしれない。まあ、長生きはしてみるもんですな。
●どこが違うのかは近代落語の歴史を紐解かなければならない。落語は元々、江戸、上方で江戸時代に発展してきた演芸。人情ものや、滑稽話、怪談など様々なジャンルで発展してきた。それが江戸っ子たちに愛されてきた。それが明治維新で薩長の落語を聴いたこともない軍人に「落語とはどいううものか、見せてみい」ということで当時、活躍していた三遊亭円朝が演じたのが判り易い人情もの。まあ、田舎もの相手だから。そこが江戸落語の第二の出発点となってしまった。
●この江戸っ子=下町=人情のわかりやすい図式に反論するのが談志落語。現代では古典となった「現代落語論」で、師匠はこういう。「落語は業の肯定である」。つまり、人間の本性を善にみるのではなく、悪に見るというと解り易い。さらに師匠は人間の悪を肯定するのである。
●かつて、こういった落語家は古今亭志ん生がいた。志ん生のすさまじい「小金餅」や「風呂敷」に人間の業の肯定が駄洒落の渦の中にいきずいている。師匠曰く「志ん生の家に生まれたかった」。志ん朝はその実子であり、師匠曰く「唯一、金だして寄席に足はこんでもいい噺家」と賞賛した。
●師匠の落語の自論で有名なのは自分の落語は「イリュージョン」。これは一種の幻覚、幻影を舞台の上で表現しているとも言え、自分の落語は出来不出来が激しい、このイリュージョン状態になるかならないか、やってみないとわからないそうだ。一種の虚実皮膜論(近松門左衛門の芝居論。現実か空想か解らなくなる境地に芸術の神が宿ると言う考え)だ。そういう意味では、見事な江戸前の口跡で見せる志ん朝のほうが芸は安定している。また、違った意味では師匠はフロイト学者の岸田秀氏を信奉しており、「いっさいは幻想であると」いう仏教にも似た哲学を落語の上で表現しているのかもしれない。ワタクシはたまたま談志イリュージョンを見たことがある。それは2004年に見た「居残り佐平次」と「ねずみ穴」だ。これは落語通のコラムニスト・堀井健一郎が2004年のベストに挙げていたので、ワタクシの私見だけではない。
●「居残り」は金のない廓に居残った男が口先だけで乗り切り、金を騙し取る話で、まさに業の肯定を絵に書いたような男だ。この佐平治のちょうちん持ちの見事ぶり、また、その裏に抱えた虚無感を表現している。余談だが、川島雄三の「幕末太陽伝」でもフランキー堺が佐平治を好演している。また「ねずみ穴」は火事が起こって家に空いたねずみの穴が気になってしょうがない小心者の噺だが、こちらも鬼気迫る名演を披露した。ワタクシが思うに、師匠は普段は佐平治を実人生でも演じているようだが、実際はこの「ねずみ穴」の主人公のようなところがある。ものすごい吝嗇家でもある、そんな師匠の内面をのぞかせる噺だった。
●立川談志の息子さんが全く仕事をしないので、聞いてみると「お父さんがこんだけ働いてるんだから、息子は働かなくてもいいだろう」と反論され、「落語に対する見方が変わった」という。落語みたいな噺だが、息子さんは現在、師匠のマネージャーをやっている。単なる親馬鹿な部分もこの一代の天才はもっている。娘にもすごく甘いし。
●そんな親馬鹿な師匠も弟子には厳しい。扶桑社「エンタクシー」の立川談春の「談春の青春」に余すことなく厳しいエピソードが満載されているので、興味のある方は眼を通して欲しい。(今号は巻頭で同世代でもう一方の風雲児・石原慎太郎都知事と対談してます)
●厳しいだけあって、立川一門はいい弟子が育っている。前出の談春もいい噺家だ。さらに志らく、志の輔と実力者を輩出しているのものの一門の強みだ。その代り、逃げ出す弟子も多数いるが…(先日も付き人の風吉が脱会した。センスはすごくよかったのだが…残念)
●元々は小さんの弟子で落語協会を担う若手のホープだったのだが、真打の昇進で不平等だと一門を脱会し、30年が経つ。先日もこぶ平が名跡・林家正蔵を襲名した時も、批判していたが、今や、どちらが正しかったのかは玄人ならお解りだろう。それにしても現代の二世落語家はどいつもこいつもつまらない(花録、正蔵、いっ平)
●立川談志は現在、七代目でかつての先代は珍芸・滑稽芸で明治時代、一世を風靡した。そんな事も師匠の頭にはあるのだろう。本人は桂文楽系の名人顔をするのを嫌がり、ひょうきんな顔や仕草をよくするのも襲名名に対するこだわりか、それとも江戸っ子のはにかみか(本人は結構シャイなひとでもある)。また、自宅の家の中はNBAのぬいぐるみだらけの不思議なおじさんでもある。
●師匠が亡くなったら誰がこの大名跡を継ぐのか?今から(といってもそんな遠い先の話ではないが)心配だ。
●世相講談も得意で、独自の文明論を展開し、政治にも一家言あり、かつてはテレビタレントとしても一世を風靡した(「笑点」は師匠志の発明。初代司会者も担当した)多才な人なので、書き出すととどまらない。今回は本丸の噺家としての師匠を論じて、終わりにします。
●談志ってのはどんな落語家だい?こころざしをもって談する人です。そのまんまやないかい。はい、そのまんまです。

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