Friday, July 14, 2006

日本古代史の謎③出雲神話

●ウィキペディアより
●姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと思わる。また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出した。出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。その後、西部地方は衰えを見せるが出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し弥生後期には広く日本海側に展開をした。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえる。その後、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もある。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説がある。 
●楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。古事記、日本書紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月(10月のこと;出雲では神在月)に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘がある。暦の名称や、和歌の起源などもここに求められるという説もある。
●ただし、宗教で纏め上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしている。現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆国と考えるのが妥当であり、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされている。
●その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造家は現松江市以東にあった意宇郡の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となったが、出雲国造家の血統は現在までも連綿と続き、天皇家と匹敵する長さを有することとなった。

●出雲は古代日本の中心地で最初に奈良に進出した一族と考えられる。三輪山は大国主命が祀られ葛木山周辺は蘇我一族の本拠地。奈良盆地最古の古墳・巻向・箸墓遺跡は邪馬台国の遺構と推測され、そこは大国主=蘇我の城都と言われる。

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