Monday, July 03, 2006

カオルちゃんから亀田3兄弟~ミナミ大阪ヤンキー論

●先日、衛星放送で「岸和田少年愚連隊・カオルチャン伝説」を観た。
●カオルチャンとは作家・中場利一の「岸和田少年愚連隊」にでてくるモンスターで、実在の人物。映画の中では竹内力が怪演している。
●中場利一(なかば りいち、1959年 -)は、作家。大阪府岸和田市生まれ。
高校中退後、「本の雑誌社」への投稿がきっかけで、1994年、自伝的小説「岸和田少年愚連隊」でデビュー。その他の作品に「岸和田少年愚連隊・血煙り純情編」などがある。平成9年(1997年)7月17日に覚せい剤所持の現行犯で大阪府警察西成署に逮捕された。
●この作家の中場もカオルチャンもそうだが、岸和田一帯には無職のチンピラがごろごろ住んでいる。
●岸和田はかつて商業港として発展し、城下町も置かれた歴史ある町だ。また、明治維新は大阪中の紡績工場があったところで、在日朝鮮人や、沖縄人を過酷な労働条件で酷使した歴史がある。なんといっても有名なのがだんじり祭り。
●その歴史は、元禄16年、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷大社を岸和田城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられ、約300年の歴史と伝統を誇る
●岸和田市には全市で82台のだんじりがあり、大きく9つの地区に分かれる。そのうち2地区が9月に祭礼を行い、残りの7地区が10月に祭礼を行う。
14日早朝、午前6時から一斉に各町のだんじり21台(町内曳きの南上町を除く)が通称カンカン場へ向かって繰り出し、やりまわしを行い、『曳き出し』が始まる。早い町は午前5時半頃には自町を出発し、『曳き出し』に参加する。14日午前9時過ぎより南海岸和田駅前にて『パレード』が行われる。15日午前9時過ぎより祭の最大の神事『宮入り』が岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社で行われ、クライマックスに達する。特に、岸城神社に向かう際の岸和田市役所前(コナカラ坂)のシーンは人気があり、圧巻である。
●関西以外の地方では、あまり知られていないかも知れないが、「だんじり」という山車は、岸和田だけでなく、泉州・河内地域(大阪府南部)の市町や大阪、神戸、奈良など、関西一円の祭の形態として、広く存在している。
●長々とだんじりの説明を挿入してしまいましたが、ワタクシ東京に来て15年経ちますが、首都圏から見た大阪について考えさせられることが多いからです。
●ミナミ大阪ヤンキーカルチャーというのが確実にあります。それはパリ=芸術、ロンドン=パンクみたいに消費される文化としての大阪=ヤンキーなカルチャーです。
●阪南ヤンキーカルチャーの特徴
①女よりツレが大事
連れのことを女性ではなく、男友達をさすのがこの地域の一大特徴。
②クルマ大好き
関空ができた頃、漁業権成金が大量発生して、大量のアメ車、イタ車が売れた。筆者はりんくうタウンのクラブで100台以上の高級外車に乗るヤンキーに遭遇した経験がある。金がなければパクリます。
③働くのが嫌い
とにかく働かない。「大阪で生まれた女」もこれで縁が切れてせいせいしているだろう。中場利一も「一生遊んで暮らしたい」という名エッセイに詳しく書いてます。
④けんかが好き
うまい事いけば「亀田」や「辰吉」に。しかし、末路は「渡辺二郎」の可能性も…
⑤基本的に芝居がかっている
「吐いたつばのまんとけよ」
「耳の穴から手つっこんで、奥歯がたがた言わしたろか」
「われ誰にメンチきっとんのじゃ」
等、第三者(聴衆)を意識した啖呵が満載。これは「火事と喧嘩は江戸の華」文化に合い通じるものがある。武智鉄二先生に言わせると「団十郎の十八番の荒事の元ネタは河内にある」そうです。となると、河内の喧嘩文化は日本文化の源流になる?
●具体例
①映画・井筒和幸「パッチギ」「ガキ帝国」「岸和田少年愚連隊」
Vシネ「ミナミの帝王」「実録・柳川組」
三池崇史「喧嘩の花道」
催洋一「血と骨」
②漫画・どおくまん「ああ花の応援団」
さだやす圭「なんと孫六」
南俊一「ナニワトモアレ」
青木雄二「ナニワ金融道」
はるき宏美「じゃりんこチエ」
③小説・中場利一「岸和田少年愚連隊」
梁石日「血と骨」(2004年に公開された。ビートたけし主演で話題を呼ぶ。昭和の初期から1980年代にかけて、自己中心的に生き、人とかけ離れたその強靭な肉体と性欲を持つ在日朝鮮人男性・金俊平とその男に翻弄されていく周囲の人々の生活を描いた作品)「夜を賭けて」
小松左京「日本アパッチ族」
今東光「悪名」
④音楽・やしきたかじん「東京」
BORO「大阪で生まれた女」
憂歌団全曲
桑名正博「月の灯り」」(覚せい剤で拘留中につくった獄中ソング)
●これらの元ネタは実在の人物であるケースも多く、
①青田赤道(実在の人物。応援団親衛隊長ではなく、様々な人物の合成らしい。詳しくは宝島別冊「大阪ヤンキー列伝」・二ノ宮清純著)
②赤井秀和(元ボクサー。浪速商業)
③前田明(元格闘家。浪速商業)
④カオルチャン、イサミチャン、チュンバ、小鉄(岸和田のレギュラー。以前、近畿日本ツーリストでカオルチャン見学ツアーが主催されたらしい)
⑤松山猛(「パッチギ」の主人公)
⑥金俊平(「血と骨」の主人公。恐ろしい)
●そして、今日、最大の担い手は「亀田3兄弟」(笑)。驚異的な視聴率を稼いでます。おっそろしい話ですが、なぜ、これらがショービジネスとして成り立つのは何故か?その理由を先のだんじりに見る。
●岸和田だんじり祭は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、多くのマスコミに取り上げられたこともあり、それまで、関西の一地方の祭であったものが、一気に全国区の祭、日本を代表する祭へと大きな飛躍をとげた。長い伝統を誇る日本の著名な祭の多くが、資金難や町衆のパワー不足のため、現状を維持し、現状のままを後世へ伝えていくのがやっと、というような時代の中で、岸和田だんじり祭が、現代においてもこれほどの隆盛をきわめている理由は、岸和田だんじり祭そのものの魅力もさることながら、岸和田という街がおかれた、歴史的・地理的な特殊性・偶然性を抜きにしては語れない。
●まず、伝統的な祭が存在するためには、少なくとも江戸時代以前から栄えた街であることが必要である。そのための要件としては、「城下町」「港町」「門前町」等があげられる。確かに「大きな城下町」であった街の多くは、明治以降、「都道府県庁所在地」としてさらに大きな発展を遂げた。ただ、その発展が、祭にとっては逆にあだとなり、城下町として栄え、祭が存在していた中心部では、オフィスビル化・空洞化という現象により、町衆が減少し、その結果として祭の活力がそがれるという結果になってしまったのである。京都の祇園祭などはその典型である。また江戸時代に比較的小さな藩によって築かれた「小さな城下町」の大半は、地方都市として過疎に見舞われ、街の活力とともに祭も活力を失っていったのである。
●岸和田は江戸時代に譜代大名・岡部氏五万三千石の比較的「小さな城下町」として栄えていた。本来であれば、このような「小さな城下町」は明治以降、衰退の道をたどるのが一般的であるが、岸和田は、大都市・大阪から約20kmという、その恵まれた立地のために、戦後、大阪を中心とする「関西大都市圏」に組み込まれる形で、地方の小城下町でありながら、大阪のベッドタウンとしてさらに発展を続け、人口も増加していったのである。このため、岸和田は「空洞化」・「過疎化」のいずれにも見舞われることなく、町衆は増え続け、そのパワーも温存することができたのである。このことが今日の岸和田だんじり祭の発展の礎となったことは忘れてはなるまい。
●前述したように、京都・祇園祭をはじめとする日本を代表する伝統的な祭りが、都市の空洞化・町民の郊外への流出などにより形骸化していく中、岸和田だんじり祭は、300年余りの間、だんじりを保有する各町の住民たち自らの手により、連綿と継承されてきた。現在も、その運営は全て町民・町会により行われ、行政や観光協会がかかわることはほとんどない。また、岸和田だんじり祭は、毎年多数の死傷者を出すことでも知られているが、だんじりが事故を起こしたり、死傷者が出た際に、刑事責任を問われるのは、全てこの「総括責任者」・「曳行責任者」であり、行政の長である市長が責任を問われることはない。岸和田だんじり祭は、現代の平成の時代においても、岸和田市内各町の日常生活の中に根ざした、『生きた祭り』であり、また、このことこそが岸和田だんじり祭のパワーの最大の源泉であるといえよう。
●祭りという伝統が生きているとそれはその祭りがもち続ける文化も生き続ける。それが阪南バッドボーイズのパワーの源泉ではないか。
●後、もう一つ、在日朝鮮人問題がある。「パッチギ」や「ガキ帝国」にリアルに描かれているが、日本人と在日の喧嘩というのは本当によくある話なのである。
●かつて、神代では浪速津では、渡来人達が権力闘争を続けていたであろう。仁徳天皇陵を初め、崇神天皇から雄略天皇まで、大阪に都が置かれていた頃から争いのたえない街なのだ。
●そんなミナミ大阪ヤンキーの中でもっとも成功した例を紹介しよう。「京阪神殺しの軍団・柳川組」だ。
●柳川組(やながわぐみ)は、大阪に本拠を置く日本の愚連隊系暴力団で、三代目山口組の2次団体。 三代目 山口組 膨脹其時(1960年~1964年)全國征伐の 先鋒的 組織 兼 功勞団体.
●柳川次郎が大阪 キタで形成した一派が発展して、1958年に「柳川組」として正式に結成。 1959年、柳川が三代目山口組若頭・地道行雄(地道組組長)から舎弟盃を受け、山口組に傘下入りした。明友会 事件の 功勞に 1960年12月13日、三代目山口組(組長・田岡一雄)の直参に昇格。 当時,全国の極道たちは,恐るべき戦闘力の 柳川組を'殺しの軍団'と呼んだ. 全盛期時, 73団体, 組員 1700名に(準構成員含むと 2800名) 全国の 1道 2府 10縣の 進出. 山口組には武闘派の柳川組を山口組内外に知らしめた. 三代目山口組 最強派閥として全国最強武闘派 2次団体だった. 三代目時代に二次団体として全国唯一広域暴力団に指定された組織。
●柳川が長期服役することになり、1964年に谷川康太郎が2代目組長に就任したが、その谷川も1967年暮れに逮捕されるなど、「第一次頂上作戦」において集中的な取り締まりを受け、遂に1969年4月9日、柳川と谷川は獄中から解散を声明。 2人は同年8月、“山口組本家に無断で組を解散した”ことを問われて絶縁処分を受けた。
●残存勢力は石田組組長・石田章六、野澤組組長・野澤儀太郎、金田組組長・金田三俊、藤原組組長・藤原定太郎の4人(いわゆる「柳川組四天王」)が1969年7月に山口組直参に昇格して引き継がれるなど、その後の山口組においても大きな位置を占めている。
●阪南は「暴力」「祭り」「地下経済」など様々な要素が絡まりあい、近代以前の野生が繁殖している貴重な地域なのだ。江戸を失った今、京都文化と共に関西が誇る偉大なカルチャーなのだ。

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