Friday, July 14, 2006

日本古代史の謎①邪馬台国

●まずは毎度おなじみのウィキペディアからの抜粋。
●邪馬台国(一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説あり。後述)は、三国時代の歴史書『三国志』(西晋の陳寿の作)のうちの『魏書』の中の『魏書』東夷伝その他の中国歴史書に記載されている3世紀、女王「卑彌呼」(卑弥呼)が治めていた倭人の国。当時小国ばかりだった3世紀の倭国で、188年の倭国大乱の後に倭人の国30国を従えていたとされている。丹(辰砂)などを産出するとされる。248年に敵国狗奴国との戦いの最中、卑弥呼が死去した後、男王がたったが治まらず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になったという。
●「やまたいこく」と言われるが、とりあえずの日本語読みである。 『三国志』のすべての版本には「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれているが、これは伝写の誤りまたは字の書き換えで、「邪馬臺國」(日本語読み「やまたいこく」)が正しいとされており、これが学界の定説となっている。日本の漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)後は「壹」は壱、「臺」は台と書く。しかし、「邪馬壹國」とする説も在野に根強く残っている。また、「耶馬臺國」と書く説もある。
●邪馬台国があったとされる根拠は、『魏志』倭人伝に残されている(参照→Wikisource)。場所は、魏志倭人伝に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になってしまう。そのため、様々な解釈がなされ、邪馬台国の位置は比定されていない。
●邪馬台国の比定地については、古くは江戸時代に新井白石や本居宣長らが書物などに独自の説を発表をした。明治時代に入り、比定地などに対する論争が始まり、現在においても結論が出ていない。これらは邪馬台国論争などとも呼ばれて、日本どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は畿内説と北九州説である。
●畿内説は、『魏志』倭人伝の方角表記が誤っていると考える研究者(主に京都大学系)に多く見られ、北九州説は、距離表記が誤っていると考える研究者(主に東京大学系)に多い。又、最近の畿内説は考古学による知見を主たる根拠にする傾向が強い。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。
●それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」(※外部リンク--邪馬台国大研究--)にまとめられている。
●畿内説の中では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむく遺跡)を邪馬台国の都に比定する説が、(1)遺跡の最盛期が弥生時代終末期~古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること、 (2)北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土すること、(3)広大な面積をもつ当時としては最大級の集落跡であること等の理由により有力になっている。
●また隣接する箸墓古墳が、 (1)300mに迫る規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在し、更に出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められるなど、それまでの墳墓とは明らかに一線を画し、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価されてる画期的な古墳であること、 (2)後円部の規模が『魏志』倭人伝にある「百余歩」(約160メートル前後)に一致すること、 (3)築造年代が卑弥呼の没年(248年 頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっていること、 等により、卑弥呼もしくは台与の墓の最有力候補であることも、纏向遺跡を邪馬台国とする説の重要な根拠の1つである。
●また、三角縁神獣鏡に代表される大陸渡来の遺物がこの時期畿内を中心とする分布となっている事も、畿内説の根拠となっている。ただし、この説には異論もある。
●また、邪馬台国時代の畿内からは鉄製品が殆んど出土しない事(『魏志』倭人伝の記述からは邪馬台国では多くの鉄が使用されていた事が伺える)、『魏志』倭人伝に記述された民俗・風俗が当時の近畿地方のそれとは合致しない事などが畿内説の弱点として上げられる。もちろん『魏志』倭人伝が記述しているのは、必ずしも邪馬台国の都の民俗・風俗ではないという反論もある。
●参考までに、畿内と北九州以外には、琵琶湖湖畔、吉備、出雲、南九州、四国、千葉県、山梨県など日本各地に邪馬台国とされる地域が散らばっている。

●北九州か畿内か
●本居宣長は「畿内のヤマトを北九州が勝ってに名乗った」説。歴史作家の関裕二氏はこの説が正しいと主張する。
●ただし、畿内のトヨが北九州(大分県の日田と推定)の卑弥呼を滅ぼし、その後、畿内の政権の裏切りにあって、そのまま九州に放逐され、それが宇佐八幡宮(日田の近くにある)だという。
●松本清張も北九州説で魏志倭人伝の水行陸行を読み替え説を採った。どちらにしろ3世紀に畿内、北九州両方に巨大な政権があった事は事実。魏志が問題にしたのは北九州だろう。これがワタクシの意見です。
●伊勢神宮の内宮は天照大神(これが卑弥呼)。外宮はトヨ。これが日本書紀の神宮皇后にあたると関氏は主張する。
●称徳天皇が道鏡を天皇に付ける時にご託宣を賜ったのは宇佐八幡宮。ここに祭られているのが神宮皇后。国内に8万あると言われる八幡宮の総本山でもある。特別な意味をもつ神社であることは間違いがない。
●これらは関氏の意見である。ワタクシは現段階では日本古代史は関史観が一番真実に近いのではないかと考えている。古代史に興味のある方は一度読んでいただきたい。
●推薦図書
古代史9つの謎を掘り起こす PHP文庫
神武東征の謎―「出雲神話」の裏に隠された真相 PHP文庫
「古代史」謎解きのヒント 講談社+α文庫
大化改新の謎―闇に葬られた衝撃の真相 PHP文庫
●作家・坂口安吾が「安吾新日本地理」で日本の古代の政権争いは朝鮮半島の新羅・百済・高句麗の代理戦争だと言っていた。評論家の柄谷行人氏もこの発言に注目している。ワタクシも注目している。坂口は志半ばで死んだ。その意志を継ぐのが哲学者の梅原猛氏であり、作家の井沢元彦氏であり、より抜き差しならない証拠を突きつけてくるのがこの関裕二氏である。
●日本古代史をこの関史観をベースに再考していきたい。
●では畿内政権とはなにか?関氏はトヨとその参謀である竹内スクネの関係に注目する。このスクネは大国主命の末裔とされる。トヨ=大国主命連合とはなにか?これは畿内の巻向古墳を築いた畿内第一王朝だと説く。(ここでは吉備=出雲は連合、つまり同族とされている)ではこの連中はどこから来たのか?関氏は新羅と密接な関係にあるという。それが浦島伝説に残されているそうだ。
●浦島伝説は日本書紀の「海英彦山彦」の海彦の話に原型があり、またこの子孫が神武天皇にも繋がる家系なので歴史上、重要な事件なのだ。関氏は浦島を鉄を求めて朝鮮半島に向かった渡来人だと説く。しかし、朝鮮半島で思うような採掘が出来なかったので再び、日本に帰ってきたそうだ。浦島伝説の推定地は山陰。ここにはトヨも奉られている浦島神社がある。また。九州にもゆかりがある。
●大国主命が奉られてある出雲と浦島神社は目と鼻の先。また、トヨは九州と縁が深い。それらを総合的に考えると、機内の第一王朝が北九州を制圧した仮説が立てられる。
●次に北九州政権とは何か?魏志では倭人と表記されている。この倭人とは何かを詳しく説明したのは文化人類学者の鳥越健三郎氏。結論から言うと倭人とは南中国一帯に広く分布する中国大陸の一民族だそうだ。農業を中心に漁業を営む、半農半海洋民族で、ベトナム辺りには現在でも当時の風俗のまま生息する原住民族がいる。彼らは長江流域に稲作文明のカボト遺跡を残し、日本に稲作文明をもたらした渡来人、最初の弥生人だそうだ。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと論じられたが、吉野ヶ里以上の巨大遺跡が北九州のどこかにあるに違いない。これらの生き残りが後に倭寇や、松浦党や、水軍になっているのだろう。ひょっとすると平氏にまで繋がっているのかもしれない。
●話は飛ぶが、源氏と平氏の争いも古代の政権争いの最終段階だという。歴史作家の矢切止夫氏はこの説を説く。前出の坂口氏もそれを疑っている文章を残していることを柄谷氏は指摘している。
●最終的に源氏が勝ち、北条に乗っ取られ、皇室と権力争いを繰り広げ、室町時代を迎えて、日本は現在の形なった。関東武士はどこから来たのか?埼玉県に高麗神社という神社があり、ここに古墳時代に大量の高句麗人が移住してきたことが記録に残っている。坂口氏はこう言う「これだけまとまった形で移住してきた記録がらるが、これは時代が安定してきたからで、これ以前にも大量の名も無き移住者があったに違いない」。高麗神社の近くにはさきたま古墳がある。ここの銅剣は書かれている碑文で有名。日本最古の文字といわれている。書かれている内容はこの地はワカタケル(雄略天皇)の家来がいたということだ。時代は5世紀。この頃には関東にまで畿内政権の勢力が届いている。
●ただし、これを元々、朝鮮半島から来た同族のつながりが合ったとも考えられる。いずれにせよ、この時代は関東地方も畿内も前方後円墳だらけ。しかも渡来人だらけだった。
●さきたま、高麗神社の近くの秩父は重要な地だ。ヤマトタケルのこん跡も多く残り、33箇所巡りもできる関東の霊場。また、和銅開封の製造現場でもある。四国88箇所もそうだが。霊場巡り=鉱石採掘所でもあるのは歴史通の方ならご存知のはず。古墳時代はこの地を巡って渡来人が争ったことは想像に難くない。
●話は邪馬台国に戻る。今後、北九州で巨大遺構が見つかる可能性も高く、当時の日本は二重王朝に近い状態で、双方がヤマト=ヤマタイを名乗っていたのではないか?北九州王朝は中国渡来人、畿内は朝鮮渡来人が中心。そして双方は対立して、最終的には畿内勢力が勝利した。本日の仮説はここまで。次回は第一次畿内王朝の謎について考えたい。

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