Sunday, October 01, 2006

再読「日本近代文学」⑦中上健次

●良くも悪くも戦後の作家では村上春樹と中上健次が最大の存在でしょう。ではまず毎度おなじみのウィキペディアから抜粋。
●中上 健次(なかがみ けんじ、男性、1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、和歌山県新宮市生まれの作家・批評家・詩人。本名は、表記は同じだが読みは「なかうえ」。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中山菜穂。被差別部落の出身であり、部落のことを「路地」と表現する。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。デビュー作は、村上龍『限りなく透明に近いブルー』の先行的作品とも呼べる『灰色のコカ・コーラ』。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーに学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、「紀州サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1975(昭和50)年、『岬』で、第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として、話題を呼んだ。早世。
●『枯木灘』(1977年)は著者の出世作。被差別部落に住む中上と中上の血族がそのモデル。事実と空想がない交ぜになったギリシャ悲劇を思わせる路地の物語で一躍、戦後で最も重要な作家となる礎を築いた。私も高校生の時にたいそう感銘を受けました。そして現在、再読してみるとそこまでの感銘はなく、中上の抱えていた問題を捏造に感じてしまう。
●最も、それは著作から発見したのではなく、「評伝 中上健次」(高澤秀次)を読んだからだ。中上は上京中に新卒サラリーマンの2倍の仕送りを受け、放蕩し、肉体労働も短期に辞めることを繰り返して、作中で語られる労働の美しさは実体験に基づいたものではなく、空想の産物に過ぎなかった。このことは作家・梁石日氏が「アジア的身体」の中で指摘している。要するに若者が差別の出自や、複雑な家庭環境を神話に昇華することによって自己肯定するための材料にしていたのだ。おおよそ差別された実体験に乏しい中上が、東京で文筆業に身を立てるために利用したといっては言いすぎだろうか。評論家・福田和也氏は「 近代の果実をかじった「満腹ガキ」の一人としてのあがきを「現代文学」で論じている。ただ、タクシードライバー18年の梁氏から見れば、同書で引き合いに出されている港湾の哲学者・エリック・ホッファの言を引き出すまでも無く、労働の実感なさを指摘されている。
●それでも「満腹ガキ」の一人としてそのあがきを福田氏は擁護する。
●私も「枯木灘」は擁護したい。問題は次作の『地の果て至上の時』(1983年)で中上は自家撞着を始めてしまったことだ。この物語で秋幸は語るべき神話を乗り越えられず、自分自身が構築した物語の渦に飲み込まれてしまったのではないか。
●大阪に「人権博物館 リバティ大阪」という博物館がある。大阪の最大の部落・旧渡辺村の中心にあるこの博物館が今年、リニューアルしたので5年ぶりに見学した。するとかつて観た「京都七条部落問題」や岸和田紡績の過酷労働、もしくは中世の差別の起源など、行ったものに必ずや、打撃を加える重厚さが消え、薬害エイズ、女性の就職差別、ハンセン氏病などのこの世にあるありとあらゆる差別に向けて糾弾する展示に裾野が広がっていた。なんだか以前、行ったときの衝撃を受けなくなった。「地の果て」以降の中上が韓国の現状に言及するようになった。これを梁氏はこっぴどく批判した。それは在日である梁氏が中上が論じた韓国辞表がいかに無理解かを示すないようだったからである。別に梁氏は韓国の問題は我々の物語であるから余計な口出しは無用といってるわけではなく、中上の独善に反論している。中上は己の語るべき物語を失い、他の被差別者との連帯を志したのではないか。
●漫画家の小林よしのり氏は「ゴーマニズム宣言」の中で薬害エイズ問題を取り上げた時、運動を起こしていた当事者の患者および支援者が勝訴を獲得していた後、他の差別に対する糾弾を始め、患者の母親が政治活動を始めたことに関して、「目標を達成したのだから日常の市民生活に戻るべきだ」と論じ、団体を去った。語るべき物語を達成した中上は書く動機を失ったのではないか。それをなんとか他の被差別に見出そうとして、失速したのではないだろうか。
●『日輪の翼』(1984年)や『奇蹟』(1989年)は路地を失った者の後日談である。中上は被差別という連帯をその後の 『讃歌』(1990年) 『軽蔑』(1991年) 『鰐の聖域』(1991年) そして遺作で未完の『異族』(1991年)で書き連ねたが、初期の傑作ほどの評価は受けなかった。これらの物語は中上の中からあふれ出た書かざるを得ない作品ではなっかたのではないか。評論家・吉本隆明は「中上は現代思想などの勉強を始めてからだめになった」と後期の中上作品を批評したことに対して、盟友であり、勉強させた張本人と思われる評論家・柄谷行人氏は「勉強したからだめになったのではなく、しなくなったからだめになったのだ」と反論する。柄谷が真正面から中上を評論したものは意外と少なく、その切っ先は他の作家の作品に向けた鋭い切れ味に比べるとぬるい。梁氏は中上を「左翼評論家を押し黙らせることができた」と論じたが、確かに満腹ガキとりもさらに満腹な市民は中上の物語性にやられる。柄谷氏は今一度、中上を論じ直すべきではないか。先日、「坂口安吾と中上健次」を読んだが、坂口に関してはその可能性の中心を見事に照射して、坂口が読むべき偉大な作家であることが説得力を持って論じられている。それが中上の論になるとまるで説得力が無いのだ。要はえらいものはえらいとしか言ってない。福田氏や高澤氏の評論や梁氏の批判のほうがよほど説得力がある。「中上の死をもって近代文学は終わった」とまで論じるのだから。私も「枯木灘にはやられた。しかし、やはり作家としての中上が「枯木灘」で終わっている。今後も繰り返し、読み継がれるのはこの時代までだろう。松本清張氏は「昭和史発掘」の中で芥川龍之介作品をこう論じる「「歯車」や「河童」などの晩年の作家の実人生の苦渋に満ちた作品よりも流麗な「藪の中」や「芋粥」の短編が読み継がれるだろう」。初期の頃から芥川の晩年以上に苦渋に満ち溢れた中上の後期作品が再評価されそこに作家的到達を見ることが出来る日がくるのか。実は後期の作品を私は読んでないのでなんともいえないが今の私は読む気がしない。いずれ読みたくなる時がくるまで。
●それに比べると初期の『十九歳の地図』(1974年) 『蛇淫』(1976年)を再読したら実に面白かった。
この作家に限らず、小説家の作品は初期に限る場合が多い。職業作家とは厄介な仕事だ。

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