Wednesday, August 16, 2006

三島由紀夫最期のメッセージ

●昭和を代表する作家・三島由紀夫が自決して今年で36年になる。昭和の大事件として語り継がれる事件だが、その真相に迫る音源が再発される。これを機に三島の自決の真相を再考したい。
●本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。東京・四谷生まれ。学習院初等科から中等科および高等科を経て東京大学法学部卒。卒業後、大蔵省国民貯蓄課に勤めたが9ヶ月で退職、作家として独立した。代表作は『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。
●自らライフワークと称した輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(~1967年)。同年には『サド侯爵夫人』も発表、ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をした。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。1968年、第三部『暁の寺』(~1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。東大全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦たちと激論を交わす。1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突い総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を撒き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。決起当日の朝、担当編集者に手渡した『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年の夏には既に脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。様々な活動で知られる三島が晩年に残した二つの音源がある。
●椿説弓張月
三島は1969年、戯曲『椿説弓張月』を発表。原作は滝沢馬琴。源為朝という平安・鎌倉時代の武将の貴種流離譚。
強弓と武勇で知られる源為朝(鎮西八郎)は崇徳上皇方に加わって保元の乱を戦ったが、捕らえられて伊豆の大嶋へ流罪となる。それから十余年がたち、今日は上皇の命日。そこへ為朝征伐の軍がやってくる。為朝は敵である、この地でめとった妻簓江(ささらえ)の父を討つ。簓江は娘と一緒に入水し、息子の為頼は勇敢に戦って討ち死する。為朝と家来の紀平治や高間夫婦は船でおちのびる。その後を裏切り者の武藤太が追う。
為朝は讃岐へ渡り、祟徳上皇の御陵の前で自害しようとするが、その時上皇や父為義やの霊が烏天狗を伴って現れ「十年たてば平家は滅びる」と予言。さらに「肥後の国で旧知にあえる」とさとす。気がつくとそこに上皇達が交わしていた天杯が落ちていた。そこで為朝は肥後へと向かう。
肥後の山中で為朝は巨大な人食い猪を素手で退治する。そこで猟師に痺れ薬入りの酒を飲まされ連れて行かれた館で、為朝は長い事行方不明だった妻の白縫姫と息子の舜天丸に再会する。姫は源氏の再興を図って武士を集めていた。そこへ連れて来られた裏切り者の武藤太は腰元たちに竹釘を打ち込まれて成敗される。為朝たちは平家を討つ為に船出する。だが大嵐にあい一人又一人と波にさらわれる。そこで白縫姫は嵐をしずめるために生贄となり海に飛び込む。すると姫の霊は黒揚羽蝶になりとびたつ。海をただよう息子の舜天丸と紀平治が大きな魚に襲われた時も現れて魚を静かにさせ、魚は背中に二人を乗せて陸に送り届ける。一方小さな岩にたどり着いた高間夫婦は主人を失ったことをはかなみ、二人して自害する。そこへ大きな波が覆い被さり、あとかたもなく二人は海へ消える。
嵐で為朝一行は琉球へと流される。琉球の王家では王寧女(わんねいじょ)と家来の陶松壽(とうしょうじゅ)が王子の乳母阿公(くまぎみ)の悪巧みによって窮地に陥れられている。為朝が助けに行くが一足遅く王寧女は殺されてしまう。するとそこに白縫姫の霊である蝶が飛んできて王寧女は白縫姫としてよみがえる。一方阿公はひそかに「夫婦宿」を営みやってくる旅人を殺して金品を奪っていた。鶴と亀の兄弟は母親を殺して胎子を奪った阿公を討ちに夫婦に化けて乗り込んでくる。ところが実は阿公は二人の祖母、殺された母は阿公の生んだ娘、王子は阿公の実の孫だった。そして阿公の初恋のその相手は昔日本に行った時会った為朝の家来、紀平治だったのだ。阿公は自分の罪を悔い、二人の孫に討たれ瀕死の内に過去を述懐する。七年がたち、平家は滅亡、為朝の働きで琉球にも平和が戻った。人々の「王になって欲しい」との願いを辞退して、その代わりに息子の舜天丸(すてまる)を舜天王(しゅんてんおう)と名づけ王位につけた為朝には、もう上皇の元へ逝きたいと言う願いしかなかった。すると海から天杯をくわえた白馬が現れ、それにまたがって為朝は天空に上がる。
●三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは、学習院中等科一年(13歳)の時で、祖母と母に連れて行ってもらった1938年10月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しでした。この時、三島は「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」ということを子供心に感じたと後年語っている。
こうした三島の歌舞伎への傾倒は、祖母が三島を溺愛し、ほとんど男の子の遊びを知らないまま育ったという特異な家庭環境にも原因があるのかも知れません。遊び相手に男の子は危ないというので、お相手は女の子に限られ、遊びはままごとや折り紙・積み木ばかりであったそう。
三島が晩年に精魂かたむけた仕事は小説「豊穣の海」四部作の完成と、あまり知られていないが歌舞伎「椿説弓張月」を文楽に書き直すことだったが完成を待たず自決に至った。この物語に込められた英雄・為朝の武勇と死は心情的に三島の最期に重なるものがある。

●天と海
1965年、浅野晃は詩集「天と海 英霊に捧げる七十二章」を出版する。これは、副題が示す如く、太平洋戦争で亡くなった人々に捧げた鎮魂歌である。その格調の高さはギリシャの古典詩を想起させるほど雄大である。1967年、「天と海」は三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化される。
浅野晃は1901年、陸軍薬剤官であった駒太郎の次男として、父の勤務地滋賀県大津市で生まれる。第三高等学校(京都)に入学。中谷孝雄や梶井基次郎らと相知る。ボードレール、ニーチェ、ベルグソンなどの書に親しみ、西田哲学に傾倒する。産業労働調査所(産労)の所員となり、野坂参三、生涯の盟友水野成夫を知る。(水野成夫は戦後の経済界の四天王の一人と言われ、池田内閣を影で支えたとされる。)日本共産党に入党、共産党フラクションのキャップとして活動。弘文堂からマルクスの「哲学の貧困」の訳書を刊行。1928年、三、一五事件で逮捕される。ペン部隊として武漢作戦に従軍。1942年、陸軍宣伝班員としてジャワ遠征に参加。乗船した佐倉丸が撃沈され、スンダ海峡で辛くも救助される。1963年8月、詩集「寒色」を出版。1964年、詩集「寒色」にて第十五回読売文学賞受賞。1990年、心不全にて八十九年の波乱万丈の生涯を閉じる。
●「ちかごろ感動した本として、私は浅野晃氏の詩集「寒色」を挙げなければならない。これは現代日本人によって書かれた離騒経ともいふべき詩集である」と三島は浅野の詩を評する。
1970年、浅野晃は詩集「観自在讃」を出版する。当然、三島由紀夫にも贈呈され、三島から礼状が届く。日付は10月26日、三島の自決からほぼ一カ月前であった。

《前略
御無沙汰ばかり重ねてをります無礼を何卒お恕し下さい。
さて此度、御詩集「観自在讃」を頂載いたし、厚く御礼申上げます。丁度仕事の忙しい時で、一段落ついてから、静かな心境で拝読するのをたのしみにいたしつゝ、延引、今日に及びました。
外の嵐の夜、この長詩を拝読する想ひは一際切なるものがあり、「それほど私らの海岸線は繊細で、敏感で、悲しいのだ」といふ心にしみる一行を拝誦してゐると、野分の彼方に日本の形のすみずみまでが思ひ浮びました。
アンコール.トムのバィヨンのふしぎな仏顔がアヴァローキテシュヴァラであるといふ説から「癩王のテラス」といふ戯曲を書いたこともある小生とて、観自在菩薩の信仰には、一方ならぬ関心を持ってまゐりましたが、御高作に触れて、観自在の目がアジアの目であり、(「まことにアジアが精神でなかったらそれは何ものでもなかったらう」)この目と、日本の歴史の悠久をつなぐ視点を、新たに教へられた感じがいたしました。「天と海」以来、御作に触れる毎に、胸奥にいひしれぬものが湧き起り、慷慨の焔が胸を充たし、歴史の不如意に足摺りしたくなるやうな気持が強く起って、むしろ御詩集を繙くのが怖ろしいやうな気になるのでありますが、今度の「観自在讃」では、嵐と共に鎮魂が、激越な憂国の想ひと共に静謐が、遠い一片の青空のやうにのぞいてゐます。それでも私の好みかして、第三歌にもっとも心を打たれました。
今の世に稀な、高い純度の感動を味はふことができましたことを、本当に感謝いたします。
向寒の折柄、何卒御自愛御専一に、
        怱々
十月二十六日 三島由紀夫
浅野晃様》
「天と海」に込められた第二次大戦の英霊達は歴史を超えて「椿説弓張月」の武将達と通低音を奏でている。
●三島由紀夫最後の言葉というと自決する一年前の「三島由紀夫vs東大全共闘」というもう一つの音源を思い出す。
「君たちが天皇陛下万歳と言ってくれれば私は君たちと共闘してもいい」と話しかけるが、「ゴリラ」という罵声を浴びせかけられ最後には「まあ、見ててください」という今から考えれば自決に対する予言とも取れる言葉を残している。
 最後の市ヶ谷での演説もヘリコプターと自衛隊員の罵声でかき消されていた。
市ヶ谷自決から早、36年。今でも昭和史の中で最も印象深い事件として取り扱われるあの時届かなかった三島の最後のメッセージを今だからこそかみ締めることが出来るだろう。
●最期に三島の肉声について触れたい。「天と海」で聞く三島の肉声はまるで少年のようだ。ある意味、最期まで大人になりきれなかった天才文学少年の末路…というと哀れだが、「天と海」から醸し出されるイメージは祖母に溺愛され、男の遊びを一切させてもらえなかった公威少年が手に入れた書物、詩から得た英雄譚に自由な思いをはせた、その結末が「天と海」であり、「椿説弓張月」であり、永遠回帰の生命をテーマにした「豊饒の海」だったのだろう。

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