Tuesday, July 18, 2006

日本古代史の謎②ヤマトタケル

●ウィキペディアより
●日本武尊(やまとたけるのみこと、古事記では倭建命・と表記)こと小碓命(おうすのみこと)は、日本神話に登場する英雄。記紀の記述に依れば2世紀、一般には津田左右吉らの説から4世紀 - 6,7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物とされる。父は景行天皇。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
●古事記による説話の概要
『古事記』と『日本書紀』による説話は、大筋は同じであるが、主人公の性格付けや説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここではより浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性に彩られた、古事記の方の説話を中心に述べてゆく(日本書紀との差異は、逐一文末に表示する。おおむね、日本書紀のほうが天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である)。
※岩波書店日本古典文学大系1古事記、67日本書紀上による。
●父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄を殺してしまう。そのことで小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず伊勢へ赴き、伊勢の斎宮をしている叔母倭姫命から女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった(日本書紀では、兄殺しの話はなく、父天皇が一旦平定した九州地方で、再び叛乱が起きたため、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている)。
●九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた(日本書紀では熊襲の首長が川上梟帥(タケル〉一人とされている点と、台詞が古事記より、天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じである。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される)。
●その後、日本武尊(倭建命)は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう(日本書紀では崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、全く同型の話が見えるが、日本武尊(倭健命)の話としては出雲の話は全く語られていない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける)。
●西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は、再び叔母倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は日本武尊(倭健命)に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う(日本書紀では当初、大碓命が東征の将軍に選ばれたが、彼は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が名乗りを挙げる。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢に寄って、倭姫命より天叢雲剣を賜る。…ここの部分が最も差異の大きい部分である。日本書紀では兄大碓命も存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく展開となっている。天皇の期待を一身に受けて、出発する日本武尊像は栄光に満ちており、古事記の涙にくれながら旅立つ倭建命像とは、イメージに大きな開きがある)。
●倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く(日本書紀にはない)。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という(日本書紀では駿河のこととなっているが大筋はほぼ同じで、焼津の地名起源になっている。ただし、火打石は叔母に貰った物ではない)。
●相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠み、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた(日本書紀では「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったことが明記されており、同様に妾の弟橘媛の犠牲によって難を免れたことが記されているが、和歌の挿入はない)。
●その後、倭建命は東国を平定して、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、そこから東国を望んで「吾妻はや。」(わが妻は…)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマと呼ぶようになったと言う。また甲斐(山梨県)の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波…」の歌を詠み、それに下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る(日本書紀ではルートが大きく違う。書紀では上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)まで至っている。陸奥平定後は古事記同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓氷坂(群馬・長野県境〉で、「あづまはや…」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る)。
●尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する(日本書紀では経血について詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行く経緯に差はない)。
●素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ヶ原町あるいは米原市の両説あり)で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となっていた。
●弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部~三重北部)と進んで行く。ここでは地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである(日本書紀では日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったことから、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わして報告させ、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという)。
●倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった(日本書紀では父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されていたという)。
●白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう(日本書紀では白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)となっていて、その3箇所に陵墓を作ったとしている。こうして白鳥は天に昇っていってしまう。その後天皇は、日本武尊の御名代として武部をさだめた。古事記と異なり、大和に飛来している点が注目される)。
※当時の「白鳥」は白鳥(はくちょう)のみを指すのではなく、「白鷺」など白い鳥全般を指している。
※「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われている。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。
●草薙剣
この説話では、駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣で草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが、天智7年(668年)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再度熱田神宮に祭られることになった。熱田神宮には「酔笑人神事」といってこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり、草薙剣が本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。おそらく、尾張氏の娘を母とする安閑、宣化天皇の関係で、神器化された草薙剣の祭祀を巡って、朝廷と熱田神宮に何らかの軋轢が在り、最終的に熱田神宮での祭祀が決まったために、その合理的な説明として、伊勢神宮からヤマトタケルの手を経て、尾張に剣が置かれることが語られたといえよう。
●ヤマトタケルの物語は、かつて吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面によって変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なっている。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関わっていたことが伺える。
●小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江の一の宮が建部神宮で祭神がヤマトタケルであること、などから近江=滋賀県がヤマトタケルとつながりが深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃である事と考え合わせると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊である事が推察できるが、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話が「山城国風土記」などに見られ、白鳥との関連も伺わせる。尚、「武智麻呂伝」にはヤマトタケルが伊吹山で、「平家物語剣の巻」には近江で白鳥となった説話が伝わっているので、白鳥になる話の根幹が近江に在った可能性は否定できない。
●倭姫-倭ヲグナの物語(大和に伝わる幼童神伝説)
日本の説話では桃太郎や一寸法師など童形の英雄により鬼退治がなされることが多い。このような幼童神を育てる存在を折口信夫は小母=おばだという。従ってここの倭姫は斎宮というより、幼童神を育てる巫女であろう。また、ヤマトタケルが新羅系の弥勒如来像や秦氏のような新羅系氏族と関わりの深い聖徳太子と同様の髪形をしていたことや、女装することから、新羅の花郎=ファランのような呪術的な存在である、と思われる。因みに、斎宮(いつきのみや)の跡地がある地名は、明和と伊勢市小俣(おばた)である。

●ヤマトタケル伝説において一番言われるのが、複数混合説。兄を殺す粗野なタケル。熊襲を女装してだまし討ちにする狡猾なタケル。父に裏切られて号泣する軟弱なタケル。または全国に派遣された大和朝廷の武将たちの集合体と言う話もある。
●埼玉県稲荷山古墳の剣の碑文にある「ワカタケル」とは雄略天皇のことだそうだが、熊本にも「ワカタケル」のこん跡があり、案外、雄略天皇のことかもしれない。いずれにせよ5世紀後半に大和朝廷の権力が全国に波及したのは前方後円墳の全国化とあいまって事実であろう。初期ヤマト朝廷の立役者・ヤマトタケルは実在の人物か?
●ヤマトタケルが征伐したポイントは下記。熊本(熊襲)、出雲、長野、山梨、神奈川、静岡、群馬…まるでアレクサンダー大王並みの大活躍だが、地域的に見て大体、正しいのではないか。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home