Saturday, December 09, 2006

イーストウッドとリバータリアン

●第二次世界大戦史上最大の激戦地
日本の最南端に近い太平洋上に、その島はあります。東京都小笠原村硫黄島。面積22㎞2、周囲22km、山手線一周ほどもない小さな島です。その島で、61年前、何があったのか、

●男泣きの戦争映画★★★★☆☆
『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)は、2006年のアメリカ映画。ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズによる『硫黄島の星条旗』Bradley J, Powers R (2000) Flags of Our Fathers. Bantam Books, New York. ISBN 0553111337(日本語訳: ジェイムズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ著、島田三蔵訳『硫黄島の星条旗』文藝春秋、文春文庫 ISBN 0553589083)を原作とした作品である。監督はアカデミー賞の監督賞を二度受賞したクリント・イーストウッド。製作にはスティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスも参加している。

●旗を立てた兵士は英雄か
硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。
硫黄島での死闘と戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる有名な写真の被写体となった兵士たちのその後などが描かれる。 東京から南へ1250km。アメリカ、ウィスコンシン州で葬儀社を営むひとりの老人。今、彼には最期の時が迫っていた。彼の名は、ジョン・“ドク”・ブラッドリー。彼は1945年、太平洋戦争の激戦地として名高い硫黄島に、海軍の衛生兵として出兵していた。しかも、その時撮られた1枚の写真によって、米国中から“英雄”と讃えられた輝かしい過去があった。しかし彼は、その事について決して語ろうとはしなかった……。硫黄島で何を見たのか。父は何故沈黙を貫こうとするのか。父の最期を見守る彼の息子が、硫黄島の真実を辿り始める……。原作である「FLAGS OF OUR FATHERS」は、ジョン・“ドク”・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーによって書かれた。彼は、父の沈黙に秘められた真実を知るため、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の真実に辿り着く。この本に感銘を受けたのは、メガホンを取ったクリント・イーストウッドだけではない。既に戦争映画『プライベート・ライアン』で2度のアカデミー賞(監督賞)を受賞したスティーブン・スピルバーグも、本作の映画化権獲得に尽力し、製作に情熱を注いだ。
●戦士達の真の敵とは
戦時国債稼ぎのツアーに一人は傷つき、一人は舞い上がり、一人は受け入れる。しかしその背景にあるのは戦場に出てこない将軍や、政治家たちだ。彼らは英雄を捏造しようとし、戦争を継続しようとする。イーストウッドは戦場で戦い傷つく無名の戦士達に注ぐ暖かい目とは反対にロビー活動に執心するエシュタブリッシュメントには批判的だ。

●男とはどいう生物かイーストウッドは描いた
三人の兵士のうち、ネイティブアメリカンのアイラの存在がこの映画に陰影を与える。少数民族であるが故の葛藤。また勇敢で知られる部族の戦士が伍長に助けられ、生還したことに対する後ろめたさ。「本当に勇敢なのは死んだマイクだ」「生きて帰ってきた奴は勇敢ではない」このテーマは繰り返して語られる。そしてアイラは自分を見失い、野垂れ死にをする。純粋な穢れのない魂が穢れて命の火が消える。こんな男の繊細さを淡々と描写できるのは今、世界においてイーストウッド以外にはないだろう。

●そんな彼らを英雄視することなくまた、批判することもなく、ただ受け入れるラストシーンは男泣きする。

●徹底検証・イーストウッドvs全日本戦争映画の傑作★★★★☆
『父親たちの星条旗』に続く「硫黄島」2部作第2弾、日本から見た硫黄島。2006年12月9日、世界に先駆けて日本公開。『許されざる者』(92)と『ミリオンダラー・ベイビー』(04)でアカデミー賞監督賞に輝いたクリント・イーストウッドが、61年前に硫黄島に侵攻してきた米軍と戦った日本兵と彼らの指揮官の知られざる物語を明らかにする。

●もしも栗林が日本にあと10人いたら…
一日でも長く。61年の時を超えて届く男たちの想い。2006年、硫黄島。地中から発見された数百通もの手紙。それは、61年前、この島で戦った男たちが、家族に宛てて書き残したものだった。届くことのなかった手紙に、彼らは何を託したのか。戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、ひとりの指揮官が硫黄島に降り立った。陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙)。アメリカ留学の経験を持ち、それゆえにアメリカとの戦いの厳しさを誰よりも知り尽くしていた男。本土防衛の最後の砦とも言うべき硫黄島の命運は、この男に託された。着任早々、長年の場当たり的な作戦を変更し、部下に対する理不尽な体罰をも戒めた栗林に、兵士たちは驚きの目を向ける。今までのどの指揮官とも違う栗林との出会いは、硫黄島での日々に絶望を感じていた西郷(二宮和也)に、新たな希望を抱かせる。従来の常識にとらわれない栗林のやり方は、古参の将校たちの反発も呼んだが、一方で頼もしい理解者もいた。そのひとりが、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト、「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)だった。硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、食べ物も飲み水も満足にない過酷な状況で、栗林の指揮のもと、掘り進められる地下要塞。島中に張りめぐらせたこのトンネルこそ、米軍を迎え撃つ栗林の秘策だったのだ。
1945年2月19日、ついにアメリカ軍が上陸を開始する。その圧倒的な兵力の前に5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、36日間にもおよぶ歴史的な激戦となった。死こそ名誉とされる戦争の真っ只中にあって、栗林中将は兵士たちに「死ぬな」と命じた。最後の最後まで生き延びて、本土にいる家族のために、一日でも長くこの島を守り抜け、と。栗林の奇策に反発し、軍人らしく玉砕を貫こうとする伊藤中尉(中村獅童)、憲兵隊のエリートから一転、過酷な戦地へと送り込まれた清水(加瀬亮)、戦場にあってなお国際人であり続けたバロン西、まだ見ぬ我が子を胸に抱くため、どんなことをしても生きて帰ると妻に誓った西郷、そして彼らを率いた栗林もまた、軍人である前に、家族思いの夫であり、子煩悩な父であった。
61年ぶりに届く彼らからの手紙。そのひとりひとりの素顔から、硫黄島の心が明かされていく。

●なぜイーストウッドは日本戦争映画をはるかに上回る傑作を軽々と撮ってしまったのか
過去に日本映画も和限りない戦争映画を造ってきたがこの映画にかなうものはない。なぜ、数々の戦争映画を超えてイーストウッドは傑作を造ってしまったのか。それは戦後の日本の戦争映画にはリアルがないからだろう。反戦左翼映画であったり(「野火」「ビルマの盾琴」)右翼いけいけだったり(「プライド・東条英機」)神風青春ものだったり(「ひめゆりの塔」)どれも紋切り型なのである。誰も戦争をリアルに捕らえられない。だから痛みもなく。感動もない。イーストウッドは沸騰した湯がどれほど熱いのか、氷の水がどれだけ冷たいのかを知っている。それは彼が戦後世界の警察を辞任し、現在も戦争を継続中のアメリカの映画監督であるからだ。戦後、日本に生まれてくると戦争音痴になると言われているが、この映画を見てその言葉が正しいと思った。擂鉢山の先頭シーンは息を呑むほど素晴らしい。あれは日本人には撮れないだろう。技術や予算の問題ではなく。

●リバータリアン・イーストウッド
さらにイーストウッドの映画の背骨を貫くリバータリアリズムがこの映画の風格を高めている。リバータリアンとはフランスでいう「リベルタン」日本で言うところの「無頼派」。リバタリアニズム(英libertarianism)とは、個人は、他人の同様の自由を侵すか又は他人への害とならない限りにおいて、自分とその財産を自由に出来るべきであると提唱する政治哲学である。リバタリアンは「すべての人間の交流は自発的かつ合意に基づいているべきである」ということを基本認識としている。リバタリアンは、個人あるいは財産に対する強制的な力の行使あるいは脅迫がこの原則の違反であるとしている。リバタリアンの中には、全ての強制的な力の創設を不道徳であるとみなす者もいる。一方、その他の者は、最大の個人の自由を保障するために必要最小限の力(最低量の課税や法規など)の行使に従事する必要最小限の政府の存在を支持している。ノーラン・チャート経済的自由を重視する点でリベラルとは対立し、個人的自由も重視する点で保守とも異なる。また、リバタリアニズムでは、私的財産権(private property rights)もしくは私有財産制を個人の自由を確保する上で必要不可欠な制度原理と考える。私的財産権には、自分の身体は自分が所有していることを自明とする自己所有権原理(principle of self-ownership)を置く。(→ジョン・ロック)私的財産権が政府や他者により侵害されれば個人の自由に対する制限もしくは破壊に結びつくとし、政府による徴税行為をも基本的に否定する。また税とその配分という政府機能を否定すれば、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム/anarcho capitalism)や国防・裁判・治安維持にその機能を限定した上で政府の役割を肯定する最小国家論者(Minarchist)といった分類は程度の問題といえる。基本的にリバタリアニズムが追求する自由とは、他からの制約や束縛がないことという意味での消極的自由を指している。この点において、制定法上の自由権のような政府が与える積極的自由と、リバタリアニズムにおける消極的な自由とは対照的で相反する概念である法的には、ハイエクに見られるように、自由とは本質的に消極的な概念であるとした上で、自由を確保する法思想(法の支配/rule of law)を追求する。経済的には、フリードマンに見られるように、市場におきる諸問題は政府の規制や介入が引き起こしているという考えから、市場への一切の政府介入を否定する自由放任主義(レッセフェール/laissez-faire)を唱える。(ウィキペディアより引用)

●デビュー作の荒野の用心棒では町の治安を自力で守り、自力で生き抜く。「ダーティハリー」では法の欠落で逃げ延びた凶悪犯を抹殺。「ミリオンダラーベイビー」では魂を失った愛弟子を安楽死させる。これらは国家に何も期待しない、自分お命は自分で守り、死すら自分で選択するべきであるというイーストウッドの哲学がある。これはある意味、無政府主義にも通じる。しかし、アメリカは伝統的に開拓者の国。アイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」や共和党のゴールドウォーターなどに思想的裏づけがある。こうした思想がアメリカ人の中に少なからず、根付いていることに多くの日本人はまだ気づいていない。

●戦後日本の欠落
戦後の日本人にかけている感覚はまさにこれなのである。何もかもを国任せにし、国家自体は自由経済・安全をアメリカに依存している。教育問題を含めての地方自治に関する権限委譲も地方行政単位が独立自尊で選択できるのか、と言うことである。日本人は自分の考えで価値判断し、自分の足で立てるか。イーストウッドの映画に出てくる男達は極限状況で様々な選択をし、苦悩を浮かび上がらせる。栗林忠道中将はアメリカ滞在経験の豊富な合理主義者。だから、硫黄島でのたれ死ぬことは本人が一番よくわかっている。それでも栗林は乏しい兵力で徹底抗戦を試みる。なぜならそれが本土に残った家族・国民が一日でも生きながらせることだと信じているからである。そして万策尽き果てた後、バロン西と同じく、武士的な玉砕で死ぬ。どれほどアメリカナイズされようとも最後は日本人として栗林は死んでいった。誰も栗林みたいに生きよ、といっているのではない。ただ、栗林の「己が考え、正しいと思ったら命をかけよ」と二等兵の西郷に語りかける言葉にイーストウッドは共鳴したのだろう。政府も軍にもみはなされながらも自分の価値判断に命を書けそれに準じて死んだ栗林にイーストウッドは61年前、本土から遠く離れた小島に日本人のリバータリアイズムを発見したのだろう。我々は栗林の精神を忘れているといえる。

●戦後のパイオニアは全てリバータリアン
今月号の文芸春秋に栗林役の渡辺健と栗林のノンフィクションを書いた作家の梯美智子の対談があった。その中で渡辺は「栗林という男は松下幸之助などによく似た創意工夫の人だった」と語っている。かつてのプロジェクトX世代の人間も全てひっくるめて、米国の追従とは違うオリジナリティーあふれる人材が多数いた。それらの中からホンダ、ソニーが生まれ、YS-11が製造され、セブンイレブンが生まれた。彼らは全て司馬遼太郎が言うところの暗い昭和前期に教育を受けた人間である。そして戦後、米国主導の民主主義教育が導入されてから傑出した人材が生まれていない。戦後民主主義教育のスターターである団塊世代がいよいよ定年退職をい迎えるが、彼らの中から日本を牽引するリーダーが誰も生まれていないのは注目に値する。坪内祐三氏は「あの世代から総理大臣は出てく無いんじゃないか」と評じる。ちなみにクリント・イーストウッド自身も1930年生まれ。日本で言うところの昭和一桁世代でプロジェクトX世代だ。

●そう言った意味でこの「硫黄島の手紙」「父親たちの星条旗」は全米・全日本のの人に見てもらいたい大人な映画である。ちなみに「父親たちの星条旗」は8週目にもかかわらず、ほぼ満席。「硫黄島」は初日のせいもありますが、銀座・渋谷・池袋とどこも立ち見でした。客層は老年カップルから若いカップルが多く、デート映画でその後、ラブホみたいな客層とは一味も二味も違い、なんとなく微笑ましい気持ちになりました。