Thursday, August 24, 2006

再読「日本近代文学」⑥昭和のバルザック・獅子文六

●獅子 文六(しし ぶんろく、1893年7月1日 - 1969年12月13日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名は、岩田 豊雄。演劇の分野では本名で活躍した。

横浜の弁天通に生まれる。慶應義塾幼稚舎から普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。フランスに渡って演劇を勉強する。

1937年、岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲、劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。

獅子文六の筆名による小説家としても活躍、『娘と私』『大番』『箱根山』などの連載小説で高い評価を受けた。

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小説作品
「達磨町七番地」(『朝日新聞』1937年1月5日~3月2日)
「南の風」(『朝日新聞』1941年5月22日~11月23日)
「海軍」(『朝日新聞』1942年7月~12月24日)
「てんやわんや」(『毎日新聞』1948年11月22日~1949年4月14日))
「自由学校」(『朝日新聞』1950年5月26日~12月11日)
「大番」(『週刊朝日』1956年2月26日~1958年4月27日)
「娘と私」(『主婦之友』1953年1月~1956年5月)
「父の乳」(『主婦の友』1965年1月~1966年12月)
●昭和の新聞小説の王様といってもいいほどの大家・獅子文六。現在で言えば高杉良と渡辺淳一をたしたような存在ですか。
●「箱根山」は昭和の鉄道王・堤安二郎と五島慶太が箱根で対決した史実を踏まえた上で書いている。「大番」のギューチャンは鈴木商店にモデルがいる。
●現在、文庫で読めるのは「但馬太郎治伝」「海軍」の二冊のみ。単行本は絶版。全集も入手困難な情況なので手に入りづらい。
●「但馬太郎治伝」は第一次世界大戦後のパリで盛名を馳せ、レジオン・ドギューム勲章を受けた薩摩太郎平の一代記。ほぼ実話で話は進行する。当時、パリ10数年在住時に現在の価格で600億の金を蕩尽した、ジャン・コクトーのパトロンとしても名を馳せた風雲児。
●こんな人間がいた明治大正期もすごいが、それを見事に活写した獅子文六の筆力もすごい。現代で彼に匹敵する質量を示す作家はいない。

Wednesday, August 16, 2006

三島由紀夫最期のメッセージ

●昭和を代表する作家・三島由紀夫が自決して今年で36年になる。昭和の大事件として語り継がれる事件だが、その真相に迫る音源が再発される。これを機に三島の自決の真相を再考したい。
●本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。東京・四谷生まれ。学習院初等科から中等科および高等科を経て東京大学法学部卒。卒業後、大蔵省国民貯蓄課に勤めたが9ヶ月で退職、作家として独立した。代表作は『仮面の告白』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。
●自らライフワークと称した輪廻転生譚『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(~1967年)。同年には『サド侯爵夫人』も発表、ノーベル文学賞有力候補が報じられ、以降引き続き候補となった。『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。1967年には、その最初の実践として自衛隊に体験入隊をした。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。1968年、第三部『暁の寺』(~1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。日本学生同盟の森田必勝および古賀浩靖らと「楯の会」を結成する。東大全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦たちと激論を交わす。1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバーとともに訪れ、隙を突い総監を人質に取り籠城。バルコニーで自衛隊決起を促す檄文を撒き、演説をしたのち割腹自殺した(三島事件)。決起当日の朝、担当編集者に手渡した『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年の夏には既に脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。様々な活動で知られる三島が晩年に残した二つの音源がある。
●椿説弓張月
三島は1969年、戯曲『椿説弓張月』を発表。原作は滝沢馬琴。源為朝という平安・鎌倉時代の武将の貴種流離譚。
強弓と武勇で知られる源為朝(鎮西八郎)は崇徳上皇方に加わって保元の乱を戦ったが、捕らえられて伊豆の大嶋へ流罪となる。それから十余年がたち、今日は上皇の命日。そこへ為朝征伐の軍がやってくる。為朝は敵である、この地でめとった妻簓江(ささらえ)の父を討つ。簓江は娘と一緒に入水し、息子の為頼は勇敢に戦って討ち死する。為朝と家来の紀平治や高間夫婦は船でおちのびる。その後を裏切り者の武藤太が追う。
為朝は讃岐へ渡り、祟徳上皇の御陵の前で自害しようとするが、その時上皇や父為義やの霊が烏天狗を伴って現れ「十年たてば平家は滅びる」と予言。さらに「肥後の国で旧知にあえる」とさとす。気がつくとそこに上皇達が交わしていた天杯が落ちていた。そこで為朝は肥後へと向かう。
肥後の山中で為朝は巨大な人食い猪を素手で退治する。そこで猟師に痺れ薬入りの酒を飲まされ連れて行かれた館で、為朝は長い事行方不明だった妻の白縫姫と息子の舜天丸に再会する。姫は源氏の再興を図って武士を集めていた。そこへ連れて来られた裏切り者の武藤太は腰元たちに竹釘を打ち込まれて成敗される。為朝たちは平家を討つ為に船出する。だが大嵐にあい一人又一人と波にさらわれる。そこで白縫姫は嵐をしずめるために生贄となり海に飛び込む。すると姫の霊は黒揚羽蝶になりとびたつ。海をただよう息子の舜天丸と紀平治が大きな魚に襲われた時も現れて魚を静かにさせ、魚は背中に二人を乗せて陸に送り届ける。一方小さな岩にたどり着いた高間夫婦は主人を失ったことをはかなみ、二人して自害する。そこへ大きな波が覆い被さり、あとかたもなく二人は海へ消える。
嵐で為朝一行は琉球へと流される。琉球の王家では王寧女(わんねいじょ)と家来の陶松壽(とうしょうじゅ)が王子の乳母阿公(くまぎみ)の悪巧みによって窮地に陥れられている。為朝が助けに行くが一足遅く王寧女は殺されてしまう。するとそこに白縫姫の霊である蝶が飛んできて王寧女は白縫姫としてよみがえる。一方阿公はひそかに「夫婦宿」を営みやってくる旅人を殺して金品を奪っていた。鶴と亀の兄弟は母親を殺して胎子を奪った阿公を討ちに夫婦に化けて乗り込んでくる。ところが実は阿公は二人の祖母、殺された母は阿公の生んだ娘、王子は阿公の実の孫だった。そして阿公の初恋のその相手は昔日本に行った時会った為朝の家来、紀平治だったのだ。阿公は自分の罪を悔い、二人の孫に討たれ瀕死の内に過去を述懐する。七年がたち、平家は滅亡、為朝の働きで琉球にも平和が戻った。人々の「王になって欲しい」との願いを辞退して、その代わりに息子の舜天丸(すてまる)を舜天王(しゅんてんおう)と名づけ王位につけた為朝には、もう上皇の元へ逝きたいと言う願いしかなかった。すると海から天杯をくわえた白馬が現れ、それにまたがって為朝は天空に上がる。
●三島由紀夫が初めて歌舞伎を見たのは、学習院中等科一年(13歳)の時で、祖母と母に連れて行ってもらった1938年10月歌舞伎座での「仮名手本忠臣蔵」通しでした。この時、三島は「歌舞伎には、なんともいえず不思議な味がある。くさやの干物みたいな、非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある」ということを子供心に感じたと後年語っている。
こうした三島の歌舞伎への傾倒は、祖母が三島を溺愛し、ほとんど男の子の遊びを知らないまま育ったという特異な家庭環境にも原因があるのかも知れません。遊び相手に男の子は危ないというので、お相手は女の子に限られ、遊びはままごとや折り紙・積み木ばかりであったそう。
三島が晩年に精魂かたむけた仕事は小説「豊穣の海」四部作の完成と、あまり知られていないが歌舞伎「椿説弓張月」を文楽に書き直すことだったが完成を待たず自決に至った。この物語に込められた英雄・為朝の武勇と死は心情的に三島の最期に重なるものがある。

●天と海
1965年、浅野晃は詩集「天と海 英霊に捧げる七十二章」を出版する。これは、副題が示す如く、太平洋戦争で亡くなった人々に捧げた鎮魂歌である。その格調の高さはギリシャの古典詩を想起させるほど雄大である。1967年、「天と海」は三島由紀夫の朗読、山本直純の音楽という組み合わせでレコード化される。
浅野晃は1901年、陸軍薬剤官であった駒太郎の次男として、父の勤務地滋賀県大津市で生まれる。第三高等学校(京都)に入学。中谷孝雄や梶井基次郎らと相知る。ボードレール、ニーチェ、ベルグソンなどの書に親しみ、西田哲学に傾倒する。産業労働調査所(産労)の所員となり、野坂参三、生涯の盟友水野成夫を知る。(水野成夫は戦後の経済界の四天王の一人と言われ、池田内閣を影で支えたとされる。)日本共産党に入党、共産党フラクションのキャップとして活動。弘文堂からマルクスの「哲学の貧困」の訳書を刊行。1928年、三、一五事件で逮捕される。ペン部隊として武漢作戦に従軍。1942年、陸軍宣伝班員としてジャワ遠征に参加。乗船した佐倉丸が撃沈され、スンダ海峡で辛くも救助される。1963年8月、詩集「寒色」を出版。1964年、詩集「寒色」にて第十五回読売文学賞受賞。1990年、心不全にて八十九年の波乱万丈の生涯を閉じる。
●「ちかごろ感動した本として、私は浅野晃氏の詩集「寒色」を挙げなければならない。これは現代日本人によって書かれた離騒経ともいふべき詩集である」と三島は浅野の詩を評する。
1970年、浅野晃は詩集「観自在讃」を出版する。当然、三島由紀夫にも贈呈され、三島から礼状が届く。日付は10月26日、三島の自決からほぼ一カ月前であった。

《前略
御無沙汰ばかり重ねてをります無礼を何卒お恕し下さい。
さて此度、御詩集「観自在讃」を頂載いたし、厚く御礼申上げます。丁度仕事の忙しい時で、一段落ついてから、静かな心境で拝読するのをたのしみにいたしつゝ、延引、今日に及びました。
外の嵐の夜、この長詩を拝読する想ひは一際切なるものがあり、「それほど私らの海岸線は繊細で、敏感で、悲しいのだ」といふ心にしみる一行を拝誦してゐると、野分の彼方に日本の形のすみずみまでが思ひ浮びました。
アンコール.トムのバィヨンのふしぎな仏顔がアヴァローキテシュヴァラであるといふ説から「癩王のテラス」といふ戯曲を書いたこともある小生とて、観自在菩薩の信仰には、一方ならぬ関心を持ってまゐりましたが、御高作に触れて、観自在の目がアジアの目であり、(「まことにアジアが精神でなかったらそれは何ものでもなかったらう」)この目と、日本の歴史の悠久をつなぐ視点を、新たに教へられた感じがいたしました。「天と海」以来、御作に触れる毎に、胸奥にいひしれぬものが湧き起り、慷慨の焔が胸を充たし、歴史の不如意に足摺りしたくなるやうな気持が強く起って、むしろ御詩集を繙くのが怖ろしいやうな気になるのでありますが、今度の「観自在讃」では、嵐と共に鎮魂が、激越な憂国の想ひと共に静謐が、遠い一片の青空のやうにのぞいてゐます。それでも私の好みかして、第三歌にもっとも心を打たれました。
今の世に稀な、高い純度の感動を味はふことができましたことを、本当に感謝いたします。
向寒の折柄、何卒御自愛御専一に、
        怱々
十月二十六日 三島由紀夫
浅野晃様》
「天と海」に込められた第二次大戦の英霊達は歴史を超えて「椿説弓張月」の武将達と通低音を奏でている。
●三島由紀夫最後の言葉というと自決する一年前の「三島由紀夫vs東大全共闘」というもう一つの音源を思い出す。
「君たちが天皇陛下万歳と言ってくれれば私は君たちと共闘してもいい」と話しかけるが、「ゴリラ」という罵声を浴びせかけられ最後には「まあ、見ててください」という今から考えれば自決に対する予言とも取れる言葉を残している。
 最後の市ヶ谷での演説もヘリコプターと自衛隊員の罵声でかき消されていた。
市ヶ谷自決から早、36年。今でも昭和史の中で最も印象深い事件として取り扱われるあの時届かなかった三島の最後のメッセージを今だからこそかみ締めることが出来るだろう。
●最期に三島の肉声について触れたい。「天と海」で聞く三島の肉声はまるで少年のようだ。ある意味、最期まで大人になりきれなかった天才文学少年の末路…というと哀れだが、「天と海」から醸し出されるイメージは祖母に溺愛され、男の遊びを一切させてもらえなかった公威少年が手に入れた書物、詩から得た英雄譚に自由な思いをはせた、その結末が「天と海」であり、「椿説弓張月」であり、永遠回帰の生命をテーマにした「豊饒の海」だったのだろう。

Tuesday, August 08, 2006

亀田事件

●これは一つの事件です。
●問題の判定は韓国人ジャッジの12ラウンド・10-9で亀田に軍梅を上げたことだ。フランス人の2ポイント有利も怪しい。ジャッジの集計に時間が掛かっていたのも怪しい。
●まあ、そんなこと言い出してもきりがないし、ランダエタ自身がWBAに提訴しないのも含めて怪しい。WBAが全く動かないのも怪しい。これじゃWWEと変わらないジャン!
●これらの疑惑に答えるにはWBCライトフライチャンピオン・ブライアン・ビオリア(米国)と統一戦をやるしかない。年末にやろう!とビオリアはやる気満々。これを避けるようでは疑惑はぬぐえない。ただ、ビオリアは無敗の王者だけに戦えば負けるだろう…でも、やるしかねーんじゃないの?金平様、史朗様、TBS様…

Monday, August 07, 2006

いわゆる靖国問題

●ここ数年、8月15日を前にしてマスコミを中心にワーワー言うのが、いわゆる毎年恒例の「靖国問題」です。
●小泉首相が行こうが行こうまいが、知りませんが、ワタクシはこう考えます。
●まず、靖国神社の来歴から書きます。幕末から明治維新に掛けて、長州や薩摩などの藩単位で天皇のために戦った志士達の魂をねぎらうと言う意味で出来た追悼記念所が招魂社。これが江戸の上野山での攻防をきっかけに東京に一括されたのが靖国神社の始まりだそうです。ちなみに靖国の菊のマークは天皇家の家紋です。念のため…
●その後、明治政府は立て続けに世界戦争をします。日露戦争、日清戦争、第一次世界大戦、そして、問題の第二次世界大戦…
●戦前の靖国は国家管理に官製神社として存在してました。実質上の管理は軍人がやってまして、皇族関係者もしくは軍人が宮司を勤めていました。
●先日の日経新聞のスクープである天皇メモに書かれてあった松平宮司はその名の通り、徳川家の名門の松平家の末裔で、皇室とも縁の深い人物です。
●ちなみにあの天皇メモですが、A級合祀を松平が勝手にやった見たく書いてあるが、52年の段階で、A級戦犯として扱わない国会決議が出てまして、それにあわせての合祀であります。その過程を昭和天皇が知らないとは考えられず、あのメモの真意を考えるとそんな重要でもないような気がしますが…所詮、聞き書きだし、櫻井よしこ氏などが言うように前文公開すべきでしょう。その時点で有識者が検証すべきでしょう。
●ちなみにあそこに書かれた松岡洋祐と白鳥は戦前の外交政治家で日独伊三国軍事同盟の実務担当者でした。この政策が昭和天皇の逆鱗に触れたのか、個人的に嫌いだったのかは定かではありません。この天皇メモを根拠に靖国参拝問題に決着(要は小泉に行くなといっている)がついたと左翼論壇および経済界(日経新聞は財界の意を受けてやったといわれている)は言うが、拡大解釈しても、松岡と白鳥が嫌いだから靖国には行かないと言ってるだけで、まさかこのメモが政治利用されたと知ったら富田宮司およびこのメモを提供した親族に対して、逆に怒り狂うでしょう。
●敗戦後、政教分離の名目で靖国は国家管理から独立行政法人になりました。靖国のパトロンは日本遺族会で、歴代の自民党政治家が会長を務めてます。現在は古賀誠元幹事長です。自民党の票田となり、小泉政権の誕生の一翼を担っておりました。小泉が靖国参拝にこだわるのは首相就任に力を貸してくれた遺族会に対する感謝の意でしょう。
●さて、天皇が靖国参拝をやめたのはこのメモが書かれた3年前の昭和50年で、いわゆるA級戦犯合祀の前から止めてました。天皇が参拝を止めるきっかけをつくったのは三木首相の8・15参拝の年です。少数派閥の三木が遺族会の票が欲しくて政治利用のため、終戦記念日の参拝を実行した。この時点で靖国参拝の政局かが始まったのだ。小泉の参拝の原点が三木首相の思わくと重なる。この時点で靖国参拝を止めた天皇は賢明な選択だったのではないか。この後、三年後にA級が合祀される。ただし、この時点では国際政治問題化にはいたっていない。
●首相の靖国参拝が問題化したのは中曽根首相の時です。それ以前にも三木首相の時に8・15参拝が始まりましたが、神社に終戦記念日に参拝することになったのはこの時期からで、元々、秋の例大祭という靖国最大の行事があり、以前は吉田茂とか、この時期に合わせて歴代の首相は参拝してました。
●三木時代は首相としての公式参拝か私的参拝かを曖昧にしてましたが前出の中曽根首相が戦後初の公式参拝を表明しました。中曽根首相は元海軍将校でした。中国の抗議により、私的参拝という名目にしました。後日、中曽根は「当時、首相だった趙紫陽の政治的立場を守るために私的参拝にした」と発言していましたが、要は自分のスタンドプレイのために国益を損失しただけです。大物気取りで、趙紫陽との友情で助けたそうですが、その後、趙は中曽根の友情もむなしく失脚してます。日本の首相に中国の政局を動かせると考えていたとしたならまあ、のんきですな…
●靖国問題を中国にご注進したのは中曽根を嫌っていた朝日新聞です。しかし、当時の共産党はこのことを問題にせず、むしろロシアとの国交悪化のせいで日本防衛費を増額するように要請してました。つまり今とは全く逆の主張していたのです。このことは重要で、中国にとっては国内の都合によって靖国を外交カードと考えているのです。現在でも経済的観点から胡錦淘主席はこれ以上この問題を深追いしてくないようです。右も左もコップの中の嵐で忙しそうですが、外交的センスのかけらもないのは日本人のおなじみの国民性とはいえ、寒い話です。
●現在でも、対中貿易をスムーズに運びたい奥田硯率いる経団連を中心とした国内の反安倍勢力がこの問題を政局に持ち込みたい思惑が伺えます。ちなみにトヨタは戦前に紡績工場のストライキで工場長が殺傷される事件に巻き込まれています。アメリカの大統領もかつて「中国市場にはわかったいても騙される」と言ったそうです。一人が歯ブラシ一本買っても13億本ですからね…
●今日では問題の焦点がA級戦犯合祀の問題に集中しています。しかし、反対する陣営も賛成する陣営もA級戦犯に対してどのぐらいの見識があるのでしょうか。
●A級戦犯を考える前にまず東京裁判について考えなくてはなりません。
●東京裁判とは極東軍事裁判といって、戦勝国が敗戦国、この場合はドイツと日本を裁くという歴史上初めての裁判です。何故初めてかと言うとかつて戦争をして負けて領土を割譲したりしたことはあっても、それは戦争に負けたことに対する処分であって、戦争を起こしたこと自体を罪に問われることは無かったからです。
●不幸にもそもそもドイツのニュールンベルグ裁判という雛形があって東京裁判はそれに沿って施行されたものなのです。ドイツの場合はユダヤ人・ジプシー虐殺という事件を起こしてます。ニュールンベルグはこの国家的犯罪を裁くために行われたものです。
●A級戦犯とは平和に対する罪。要は戦争を起こした国家指導者に適応します。
B級戦犯は戦争犯罪。国際法上、捕虜の虐待をした将校に適応します。
C級戦犯は人道に対する罪。民間人を殺傷した罪です。
これによればユダヤ人虐殺はC級戦犯と言うことになります。ドイツの国内法に適応させても罪状を確定できるのですが、いわば半ば、見せしめと言う形で施行されました。
●問題はこれに対する戦争犯罪人が日本にはいたのかという話です。東京裁判で罪状に問えるのはポツダム宣言受諾以前の41年までの間で争うべきですが、1928年以降の案件が対象となりました。理由は当時の田中儀一首相が天皇に中国支配を上奏したという田中上奏文が根拠になったそうですが、これは後に中国の偽書だと言うことが判明しました。ドイツのヒットラーは1933年から敗戦まで政治的実権を握っていましたが日本にはそのような長期的な国家指導者はいません。あえて言うならば昭和天皇ですが…
●東条英機は28年当時は陸軍大佐。国権の発動する位置にはいませんでした。ちなみに満州事変も盧溝橋事件にも関与しておらず、40年に総理大臣になったのも戦争回避のためです。
●もちろん戦争をとめられなかった、その後もまずい戦略を立てて日本を苦境に追い込んだのは間違いありません。東条本人もその敗戦に対する罪は国民、天皇に対して率直に認めてます。そういう意味ではA級戦犯はGHQ収監が決まった夜に自殺した近衛文麿が妥当ですが…。「国民党政府を相手にせず」といって対中戦略が拡大した明確な失政をしてます。東条は近衛の責任まで背負わされているのではないでしょうか。とにかく、アメリカは生贄が必要だったのです。
●東京裁判がさらに混迷するのは唯一のA級戦犯該当者である昭和天皇の罪を問わないアメリカの外交戦略にあります。要は東条はその罪を一身に背負って国家のために殉死したのです。この点はいくら褒めても足りない治者の矜持です。天皇はたとえ、靖国には参拝しなくても東条には手を合わせていたことに想像に硬くありません。
●東条以外のA級戦犯について触れます。巣鴨プリズンで絞首刑になったのは以下6名。
板垣征四郎、松井岩根、広田弘毅、木村平太郎などです。大戦中の陸軍大将です。広田だけは外交官僚系の政治家で唯一の文官です。海軍軍人はすでに死亡していた山本五十六に責任をなすりつけたので死刑囚はでなかったそうです。
●ナチスに類推できる戦争犯罪人がいないのでキーナン検事は共同謀議という犯罪を提案しました。判決の際に共同謀議という罪状が適応されましたが、この7名が協議して戦争を遂行した事実はありません。むしろ陸軍内部でも統制派・皇道派などの派閥がありました。
●このような一種の茶番劇によってA級戦犯は1947年の今上天皇誕生日に処刑されました。わざわざこの日を選んで刑を執行したことは東京裁判が勝者の敗者に対する見せしめである意図が明確に観てとれるのではないでしょうか。日本国としては彼らに戦後、哀悼の意を表明するものがあってもなんら問題は無いでしょう。
●中国に対してはまず、51年のサンフランシスコ講和条約に調印したのは中華民国政府で現共産党ではありません。70年に日中国交回復しますが、靖国参拝が問題視(この時点でも首相参拝は行われてます)されていません。火をつけたのは国内の左翼勢力、朝日新聞です。朝日は今日でも東京裁判を受け入れることによって日本は国際復帰したのでA級戦犯を分祀すべきだと主張しますが、専門家によれば受諾したのは(裁判の諸判決=judgement)で(東京裁判そのもの=trial)ではなかったと指摘されています。条文にはjudgementと記載されています。
●A級戦犯の一人松井岩根は日中戦の責任者で南京大虐殺の責任をとらされ処刑されましたが、松井自身は南京虐殺の指示を出しておらず、巣鴨に収監される以前から中国に観音菩薩像を建立して中国国民に哀悼の意を表明した慈悲深い面を持っています。
●いわゆる南京虐殺事件に触れておきます。中国政府の発表によると30万人が被害者ですが、当時の南京の城内には20万人しかおらず、大量の死体も発見されてません。各種調査によると、4万人ぐらいが妥当だということです。それも南京城内には便衣兵という市民に成りすました軍人が多数いたので正確な人数は藪の中です。ただし、南京大虐殺が無かったかといえばそんなことは無く、兵站=ロジスティックがめちゃくちゃな日本軍の現場が混乱し、統制が乱れて、暴走する日本兵がいたことは間違いないでしょう。ただ、軍部の指令として南京市民の計画的虐殺はなかったでしょう。もし、あれば東京裁判に課程で証拠が供出されていたはずです。ここが国家的犯罪であるナチスのユダヤ人虐殺との明確な相違点です。
●それにしても朝日新聞を中心とする左翼の偏向報道はは目に余るものがあります。朝日新聞記者の本田勝一の「中国の旅」では南京駐留軍の将校が市民を軍刀で切りあう数の競争をしたといういわゆる「百人切り事件」等を中国側の情報を裏も取らず、載せたのはジャーナリスト失格の烙印です。中国のプロパガンダを鵜呑みにして自虐史観を形成しようとする本田のほうがよほどA級戦犯です。
●朝日新聞が戦中、いかに戦争をあおったか、そして戦後、GHQに出版停止を受けてから、態度を豹変し、東京裁判史観を支援したか、今の国民はほとんど知りません。今日でも、戦後民主主義の骨格である、戦争反対・平和第一主義・自虐史観・戦前は軍部に抑圧されて暗黒時代だった・司馬史観などで国民のコンセンサスは形成されています。朝日新聞だけは信用できません。
●しかしこれらの歴史観はアメリカの都合がいいように作り変えられたもので、戦後60年経ってもこの自虐史観は日本人の思考を拘束してます。そうです。今日でも日本はアメリカに占領されているのです。
●この洗脳を解くには東京裁判史観の見直しを徹底的やることが重要です。
●小林正樹監督の「東京裁判」を観ると東条英機らA級戦犯が実に風格のある人物であったかがわかります。ぜひ一度、観てください。
●結論を書きます。A級戦犯の分祀は必要ありません。中国に対してはA級戦犯がなぜダメなのかを説明してもらい、その根拠に上述の内容を含めて反論すればいいのです。国際法上、人道的にも、論理的にもわが国が論破されることはありません。いや、あってはいけないのです。それが真に国際社会で必要な国家のスタンスなはずです。そうしなければ世界は暗黒裁判史観=スペインのピサロに処刑されたインカ帝国のアタワルパ時代に戻るでしょう。
●法学上の基本理念・罪刑法定主義や、国際法から鑑みて日本は無罪であると強く主張したインドのパル判事の遺志を我々日本人は継ぐべきだろう。パル氏はこういう「広島に原爆を投下したアメリカ兵は罪の意識をもっていたのか」と。
●今日でも、アメリカはイラクに傀儡政権を操作し、フセインを裁こうとしているが、アメリカのデモクラシーとは東京裁判史観からそう遠くない位置に立っている。国連を無視し、大量破壊兵器も無かった。アブグレイブでの虐待…。アメリカの正義とは?日本は考えなくてはならない。

土地と日本人と司馬遼太郎

●先日、キムラ建設の篠原氏が仮釈放で会見していたが、体重が20キロ落ちたそう。まるで憑き物が落ちた幽霊のようだった。ところで偽造マンション問題。あれはどうなってるの?
●まず、ヒューザーの小島社長が建築発注→木村建築が構造設計を外注→姉歯建築士が設計→イーホームズが認可という手順で住民の方々は騙された。ということらしいんだが。怖いのはヒューザーが倒産したら金は一銭もかえてっこない。ローンは残る。住むところはない。という悲惨な状況になること。これで自殺者がでないほうがおかしい。もちろん、国は一切、補償しないだろう。かわいそうだけど、しょうがない。恐ろしいのはここから先の話。本当に手抜き偽造マンションは姉歯、ヒューザーだけなのかってこと。姉歯は個人事務所で彼に仕事の依頼がくることは自殺願望のある金持ち以外は考えられない。ヒューザーも手がけた物件はすでに判明しているのでこれ以上被害は広がらない。しかし、イーホームズは民間の検査機関では国内でも大手だと言うこと。つまり、イーホームズ自体に偽造を他にも見逃していた可能性はなかったのか。最終的には国交省に認可を受けるのだが、実際、書類に眼を通しても役人には解らないそう。 つまり、今回の事件の元凶はイーホームズにある。 なぜなら、世の中には、鉄筋の材料費けちって懐にいれようという輩がいるということを前提に国家は危機管理をしなければならないからです。国交省が調査すべきはイーホームズの認可した他の物件の徹底調査であるはず。おかっないからできないだけだったりして……だって、日本中に100棟、いや1000棟の……ひょっとしたら、あなたの家も……
●先日、長野県知事選で田中康夫が敗北して、地元の県議会および財界が推す村井氏が初当選を飾った。これからはまた、公共事業政治に戻るのだろう。
●作家・司馬遼太郎は最晩年、盛んに土地の公有化を主張していた。司馬曰く「これ以上、日本人が地上げなどで儲けようとすると日本人の心が荒廃する」。今から20年以上前の話だ。
●先述した偽造マンション問題も、地方財政の破綻も要は土地問題なのである。先日、財政破綻した夕張市も購入した土地の支払いが財政赤字をもたらした最大の原因である。よそのこれから破綻するであろう自治体もおおむね、土地でパンクするだろう。
●司馬氏に言わせれば「明治維新で皇室付にした御料地が未だ未整理のまま、官僚のさじ加減で民間に売られている。その辺を曖昧にしたまま、日本の土地行政は今日までいたっている。銀座でコーヒーいっぱい900円するのも合理的な土地の価格がついてないからだ。このままでは問いのコスト高で満足な資本主義が成立しなくなる」と論じている。
●評論家・大前研一氏も「都市部にある農地を宅地として再利用すれば土地代は半分になる」と主張する。
●ところでいつから日本人はこんなに土地が好きになったのか。
●日本人がマンションを購入するライフスタイルになったのは戦後40年のこと。ワタクシも東京に15年住んでますが、古くからこの町に住んでいる人は結構、借家に住んでいる。いわゆる借地権付住宅だ。マンションの平均耐用年数が30年なので、土地代は全く計算できないマンションをローンを組んで購入するのは狂気の沙汰なのだ。
●現在60歳以上の年金勝ち組は土地が右肩上がりの時代に住宅を入手したが、それ以降の世代で土地で稼いだ人はバブル時のプロ意外はいまい。
●また、今日、都市部の商業地区の土地が上がっているが、これはREITという不動産投資信託が発達したおかげ。しかも外資系の投資が中心なので、本格的な土地バブルになる可能性は少ない。
●どちらにせよ、生産能力を踏まえた上で、まだまだ日本の土地は割高なのである。
●戦後の農地解放によって自分の土地が持てる農民が大量に都市部に流れ込み、かつてのエートスというより悲願であった土地購入という亡霊に取り付かれているのかもしれない。