Monday, June 05, 2006

正子か?次郎か?白州ブームの意味

●「風の男・白州次郎」や、「プリンシプルのない日本」などで、ここ4~5年、白州次郎がブームになって
いる。
●また、女性誌では10年近くも白州正子ブームが続いている。言うまでもなく、二人は夫婦である。夫婦で大衆に人気がある皇室を除く一般人は日本では珍しい。海外にはサルトルとボーボワールや、アルフレッド・ステーグリッツとジョージア・オキーフ、ダリとガラ等、文化人セレブ夫婦は多い。
●白州次郎は1902年芦屋生まれ。実家は貿易商で、ケンブリッジ、オックスフォードに留学。留学中はベントレーを乗り回す豪遊ぶり。その後、昭和恐慌の頃、実家が倒産し、帰国。その直後に正子と結婚。正子は海軍大将樺山柾輔の孫で、旧・家族の名門の出。昭和初期にこの坊ちゃんとお嬢さんは結ばれた。その後、次郎は戦争前に神奈川県の鶴川に引っ込み、農業生活を始める。この農家は現在でも「武相荘」として公開されている。
●戦後、次郎は以前から面識のあった吉田茂の懐刀として、当時日本を占領していたGHQとの折衝で、一歩もひかない交渉人として名声を上げる。その後も通産省の創設に参加したり、東北電力会長などを務める。上記の「プリンシプルのない日本」は戦後10年における次郎の著述を集めたもの。押し付け憲法、押し付け民衆主義からの脱却を当時から主張しており、今から考えると早すぎる内容で、今日の人気の原因でもある。親友の今日出海が「高貴な野蛮人」という通り、思ったことは口にする。また。お洒落な粋人としても評価されている。
●妻の正子は青山次郎、小林秀雄の薫陶を受け、骨董や、能狂言など、日本の古典文化の語り手として次第に声明をなしていく。こちらの正子氏も次郎と同じく、直言居士で、なぜか小林など、大物にかわいがられるところなど、吉田茂や、近衛文麿に可愛がられた夫の次郎とそっくりである。晩年の正子はミヤケ・イッセイのモデルを勤めたり、華道家の川瀬敏郎に薫陶を与えたり、「美の種をまく人」として一種、神格化された後、数年前に逝去している。
●生前も死後も夫婦揃ってこれだけ愛され続けるケースはまことに珍しく、二人には何か余人には及ばないかっこいい何かがあるのだろう。ただ、過去の経歴や、著作に眼を通してもその秘密は実はよくわからない。
●ただ、実際にここまで人気があるのはダンディだとか、古典に通じているという理由だけでなく、明治人のしかも上流階級出身の人がもつオーラなのではないだろうか。品格と言い換えてもいい。白州より、語学が堪能な人間は現代でもいるだろう。正子より骨董の目利きもいるだろうが、二人ほどいい意味で図々しく、言いたい事言っても下品じゃない人は現代にいるのか。
●戦後、旧制高校や、華族制度が廃止され我々はみな平等になった。しかし皆が皆、平等になったことが人の心に嫉妬心をあおることになってしまったのではないか。戦後60年の今日でも、人間は生まれながらにして最低限の生存権を国家が補償しているだけで、貧困、差別、またもって生まれて能力や美貌の差などいかんともしがたいものがある。人間が人間である限り、優劣は生まれた時からあるのだ。
●現代人に白州夫婦が受けているのは家柄もよく、見目も美しく、立派な教育を受けて、なおかつ、傍若無人で、でも人に嫌われない、そんな自分たちとは「格が違う人」を愛することができる余裕を日本人が持ったのかもしれない。また、戦後民主主義が生む民主的なヒーロー(長嶋茂雄、美空ひばり)に物足りなさを感じ始めたのかもしれない。だとすればこの一連のブームは悪いことではない。戦後民主主義の悪しき平等主義に日本人自体が疑問を持ち始めているのと、白州ブームが機を一にしている可能性がある。
●ちなみに白州正子の著作でお薦めは
「日本のたくみ」日本の伝統工芸に従事する匠たちを正子がインタビューした。勉強になります。
「お能の見方」能狂言のナビゲーターとしても著名な正子の能入門書。
「西行」日本を代表する歌人を正子が真っ向から取り組んだ西行伝。
(明日は神戸国際空港開港記念・我が街・神戸について)

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